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生まれてきてすいません・・・と書いた太宰治の生涯とは?

OsamuDazai

金持ちの家に育った太宰は、左翼学生として活動するうちにあることに気付く。

「革命はまさに僕たちを倒さんが為のものなんだ」(「学生群」より)。

それは現代でいえば「公務員はけしからん」と言いあう組織に所属しながら、家が公務員一家みたいなもので、後ろめたさが付きまといながら、言いだせない弱さ。さらに、それを知っていながら、金づるとして利用する左翼活動家という板挟みが、学生時代という多感な時期の太宰の境遇だったのである。

彼の中にあった金持ちの家に育った苦悩。そして、頻繁に行われる自殺未遂。現代であれば病院に連れていかれてもおかしくない青年。そんな彼に残れたのは文学だった。

大学を辞め、生きる術を求めた彼は文学に専念。そして、日本文学史に残る文才が花開く。

小説の歴代の売れ行きランキングをみると、夏目漱石と太宰治は飛びぬけている。いまだに売れ続けている。

自分の体験を小説化し、やがて死に至った作家の生涯を追ってみた。

278坪の大邸宅で生まれる

太宰治こと津島修治(つしま しゅうじ)は、青森県北津軽郡金木村(現・五所川原市金木町)で明治42(1909)年6月19日に、津島家の六男として生まれた。

よく太宰は作品の中で自らの家庭を金持ちだと書いているが、実際はどうだったのだろうか。

調べてみると、当時の津島家は青森県内の長者番付でなんと第4位だった。確かに金持ちである。では、何をして富を成したのか。

津島家の繁栄は明治維新後に地主と金貸業で富を得たのがきっかけだった。その富を背景に太宰の父親である、源右衛門(げんえもん)は、衆議院議員になっていた。

地主と金貸しと衆議院議員。地元では「金木の殿様」と呼ばれていたというが、確かに超がつくほどの金持ちだったろう。

その家庭に太宰は生まれた。大きな家の中には使用人を含めると30名が同居していた。そんな環境で六男坊として育った彼は、みんなにかわいがられ、本などを読んでもらううちに、その神童ぶりを発揮。他の子よりも字を覚えるのが早く、特別に通常より2年も早く小学校に通い始めたのだ。

育ちが良く、勉強もできる。そんな彼であったが、両親の愛をたっぷり受けたとはいえなかった。

父は議会があるため、東京と青森を往復しており、不在がち。母親は病弱だった。そのため、太宰は叔母キヱに育てられている。

しかし、小学校に正式に入学する前に、この叔母一家と引き離されてしまう。さらに、父親は太宰が14歳の時に死亡してしまう。

母親的な存在と引き離され、父親を思春期に失う。その喪失感は、のちの太宰作品にも影響を与える大きな出来事だった。

学生時代に作品を書き始める

太宰が作家を志したのはいつだろうか。

最初の作品としては17歳の頃に書いた、習作「最後の太閤」が残されている。秀吉の死に際を描いたその作品は、すでに「小説」と呼べるクオリティにあった。

どうやら小説そのものは中学校時代から書き始めていたようだ。金持ちであり、さらに小説も書ける。せっかく書いたなら仲間と同人誌を出そう、ということになった。青森中学時代には『蜃気楼』、弘前高校時代には『細胞文藝』という同人誌を編集している。

学生が作った雑誌でありながら、執筆陣にはプロの作家もいた。のちに師匠となる、井伏鱒二である。

井伏について太宰は『井伏鱒二選集』後記で、こう語っている。

「井伏さんは或るささやかな同人雑誌に、はじめてその作品を発表なさって、当時、北の端の青森の中学一年生だった私は、それを読んで、坐っておられなかったくらいに興奮した。それは、『山椒魚(さんしょううお)』という作品であった。童話だと思って読んだのではない。当時すでに私は、かなりの小説通をもってひそかに自任していたのである。そうして、『山椒魚』に接して、私は埋もれたる無名不遇の天才を発見したと思って興奮したのである」

このエピソードのすごいところは、実は太宰自身にもある。青森の田舎で、どうやって「ささやかな同人雑誌」を手に入れたのか。それはやはりお金持ちだからだろう。当時かなりの量の文芸誌、同人雑誌が津島家には届いていたという。

大正末~昭和の初頭にかけて、全国の旧制高校が左傾化し、同盟休校事件が相次いだ。太宰が進学した弘前高校は全国でもっとも左傾化運動が盛んな学校であった。太宰は左翼学生の拠点だった新聞雑誌部に籍を置いていた。しかし、その思想を学ぶうちに、革命を目指す彼らが倒すべき相手が自分の家族であることに気付く。

「私は武装蜂起に賛成した。ギロチンの無い革命は意味がない。しかし、私は賤民ではなかった。ギロチンにかかる役のほうであった」(「苦悩の年鑑」より)

そんな矛盾を抱えながら、太宰も政治活動に加わった。しかし、上級生が逮捕され、退学になると、自分も危ないと思い、一気に活動は消極的になる。結局、太宰はなんとか退学を免れ、無事に卒業を果たしている。

■上京後、自殺未遂を起こす

高校を卒業した太宰は、東京帝国大学(現在の東大)文学部仏文科に合格する。仏文科だったが、フランス語はできなかった。しかし、小説で培った英作文の力量を活かして、試験官に直談判し、英語で答案を書き、合格を勝ち取ったのだった。

太宰といえば、自殺未遂である。

その最初の大きな事件が、昭和5(1930)年に起こる。事件のきっかけは自棄(やけ)だった。

驚くべきことに、太宰は高校時代にすでに遊郭に出入りしていた。

そこで一人の女性と知り合う。小山初代(おやまはつよ)だ。

上京した太宰は、すっかり気が大きくなり、彼女と同棲をしようと東京に逃亡させたのだ。しかし、これに怒ったのが父親亡き後に、太宰の父親代わりになっていた、長兄・文治だった。

太宰にきつく説教をした後に、二人の結婚を認める。だがその代わりに「分家除籍」だ、と太宰にその覚書を書かせたのだった。

こうして津島家から縁を切られてしまった太宰。そうまでして手に入れた女、初代はなんだか嬉しそうな感じでもなく、つれない。

そこで自棄になったのか、太宰は心中事件を起こす。相手は銀座のカフェ・ホリウッドの女給、田辺あつみ(本名:田部シメ子)で鎌倉の海岸で心中事件を起こしたのだ。

結果として、女性は死に、太宰は生きた。

太宰が収容されたのは、いまも江ノ電に乗ると線路沿いに見える、七里ガ浜恵風園医療所だった。

その場所で息を吹き返した太宰は女の死にショックを受ける。

その一方で怒っている女性がいた。自分がいながら他の女と心中未遂をされた初代だった。

家に帰っても愚痴や罵詈雑言を言われたであろう。この時太宰は作家ではない。ただの学生である。身から出たさびとはいえ、精神的に辛い状況だったろう。

■優雅な学生に待ち受けていたものとは?

太宰は津島家を除籍されながらも、兄による太宰への仕送りを受け続いていた。当時のサラリーマンの月給よりも高額だった仕送りを受けながら、太宰は優雅な日々を送っていたのだ。

学生たちにとって、そんな太宰はかっこうの「金づる」だった。

いつしか彼は人に頼まれて、五反田の借家の2階に共産党員達を匿い、さらに資金援助をするようになっていた。だが、その活動が兄にバレてしまい、青森署に出頭。運動からの離脱を誓約している。

学校にも通っておらず、授業料未納で卒業の見込みがなくなったため、この出頭を機に太宰は非合法活動から手を引き、執筆に専念するようになる。

大学を除籍され、執筆に絞った太宰の才能はすぐに開花した。

昭和8年、太宰が同人雑誌の創刊号に『魚服記』を発表。18枚の短編小説だったが、これが評判を呼んだ。

文章を丁寧に直してくれた井伏鱒二は「そんな、評判になんかなる筈が無いんだが、いい気になつちゃいけないよ、何かの間違ひかもわからない」と不安そうに言ったという。

中原中也と太宰治の不思議な関係

この頃の同人誌活動の中で知り合ったのが詩人・中原中也だった。汚れちまった悲しみに、で知られる中也と太宰。繊細な二人と思いがちだが、実は中也は酒乱だった。

ある知り合いのバーでは、中也が毎日顔を出して、来る客に絡んだり喧嘩をふっかけるので、1年でつぶれてしまったこともあるほどだった。

そんな太宰と中也についてはこんなエピソードが残っている。ある酒席で中也と太宰が話していた。しかし、酔いが回るにつれて、中也が絡み始めた。「何だ、おめえは。青鯖が空に浮かんだような顔をしやがって。お前は何の花が好きなんだい」聞いた。太宰が泣き出しそうな声でとぎれとぎれに「モ、モ、ノ、ハ、ナ」と答えた。すると中也は「チエッ、だからおめえは」と言い、その後乱闘になったという(太宰はいつの間にか消えていた)。その後、中也と太宰は不仲で知られるようになったが、中也の死後、太宰は「死んで見ると、やっぱり中原だ、ねえ。段違いだ。立原(白秋)は死んで天才ということになっているが、君どう思う?皆目つまらねえ」と語っている。

芥川賞にノミネートされる

その後も太宰の躍進は続いた。第1回芥川賞に『逆行』がノミネートされたのだ。

実は太宰は、学生時代に青森で芥川龍之介の講演を聴くほど、芥川に憧れていた。そんな芥川賞の候補作になったのだ。なんとしても欲しかった。

しかし、結果は落選だった。

そのときの落選理由について川端康成が「作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾があった」と書いた。太宰は当時、盲腸の手術を受けた後に、医者から鎮痛剤として大量のパビナールを注射されたことがきっかけで、太宰は薬物中毒になっていたのだ。そんな私生活が落選理由になったことに太宰が激怒。自らも雑誌で川端を「刺す。さうも思つた」ときわどい攻撃をした。

太宰はその後、選考委員の佐藤春夫に受賞を懇願する手紙を繰り返し送っていたことが後年明らかになっている。しかし、その後も結局、太宰が芥川賞を受賞することは無かった。

入院中に妻が・・・またも心中未遂

昭和11(1936)年6月、太宰の第一創作集『晩年』が発行された。これは太宰にとって最後の一冊のつもりで作った作品集だった。

この本について太宰は「舌を焼き、胸を焦がし、わが身を、たうてい恢復できぬまでにわざと損じた。百篇にあまる小説を、破り捨てた。原稿用紙5万枚。さうして残つたのは、辛うじて、これだけである」と語っている。

その内容はかなり実験的であり、意欲作だった。

同年8月、第三回芥川賞の候補となる。太宰は今度こそ受賞を確信したが、またも落選。いよいよ薬物中毒がひどくなる。このままでは太宰が危ない。彼の才能を惜しんだ井伏らの説得により、治療のために入院することになった。

しかし、その入院中に初代が、ほかの男性と姦通事件を起こしてしまう。相手は太宰も知る人物だった。これにショックを受けた太宰は、二人で水上温泉に行き、心中を図った。しかし、これは未遂に終わり、いよいよ二人は離別したのだった。

期待した処女作『晩年』は書店に置かれたのは400冊で、売れたのはわずかに150冊だった。

太宰の不幸には終わりがないように思えた。

新たな伴侶を得て飛躍の時を迎える

その後、太宰は井伏鱒二の紹介で石原美知子と見合い結婚する。ここから太宰の黄金時代が始まった。『富嶽百景』『女生徒』『走れメロス』といった名作を次々と発表。特に『女生徒』は芥川賞のときの因縁がある川端康成が「この国では稀で育ちにくい『青春の書』」と大絶賛したのだ。

昭和16(1941)年、世の中は太平洋戦争へと向かっていたが、太宰はようやく実りの秋を迎えていた。出版社からの注文も増え、6月には長女、園子が誕生している。

11月には、軍の報道要員として徴用を受けるが、胸部疾患のため免除された。一方でこの頃、愛人となる、太田静子とも出会っている。12月に真珠湾攻撃があり、翌年には『花火』が当局の検閲によって全文削除になるが、戦時中に『新ハムレット』『津軽』『惜別』『右大臣実朝』などを次々と発表。戦時中も防空壕の中で『お伽草紙』の執筆を続けた。
やがて太宰は太田静子の日記を元に、没落する貴族を描く『斜陽』の構想を膨らませる。当時太宰は手紙で静子に「あなたの日記にヒントを得た長編を書き始めるつもりです。最も美(ルビかな)しい記念の小説を書くつもりです」と語っている。

この頃、太宰と静子とのあいだに子どもが誕生しようとしていた。自分の名前の1字「治」を付けて「治子(はるこ)」と名付けて認知したものの、彼の興味は急速に三鷹駅前の屋台で出会った女性、山崎富栄へと移ってしまった。

新たな愛人、そして最後の時へ

三鷹にある富栄の部屋を新たな仕事場にして転がり込む太宰。しかし、このころから不眠症と胸部疾患が悪化し、被害妄想もひどくなっていた。

そんな状態ながらも『ヴィヨンの妻』『人間失格』を執筆。

無頼派の旗手として多くの支持を集めた。勢いに乗る太宰は続いて『グッド・バイ』の連載を朝日新聞で始めるが、すでに限界は近づいていた。

昭和23(1948)年、6月13日、玉川上水に太宰と富栄が赤い腰紐を結び、雨で増水した川に入水した。遺体が見つかったのは19日は太宰の39回目の誕生日だった。

富栄の部屋に残されていたものはふたりの写真と遺書、『グッド・バイ』の草稿と校正刷り、そして屑籠には「井伏さんは悪人です」と書かれた紙が丸められていた。

お世話になった恩人のはずの井伏さんになぜこんなことを書いたのか。それはいまだに謎である。

この死を受けて、色々なことが言われた。富栄による無理心中説、狂言心中失敗説などだ。前者は、太宰は死ぬつもりがなく、今回も自分だけ生き残るつもりが死んでしまった。後者はいつものように窮地になると自殺未遂をするつもりが、本当に死んでしまったという説だ。いずれも太宰は「死ぬ気がなかった」というのが根本にある。

しかし、50回忌を目前に控えた平成10(1998)年、遺族らが公開した9枚からなる太宰の遺書では、美知子宛に「誰よりも愛してゐました」と書き、続けて「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」と自殺の動機を説明した。

「ただ一切は過ぎて行きます。自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂『人間』の世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした」(「人間失格」より)。

太宰が人間失格に書いた一節が、思い出される。そう、太宰治という作家がいた。しかし、ただ一切は過ぎていったのだ。

残されたのは、短い生涯に対して膨大な作品群。それらは今も多くのファンを生み続けている。

おまけ
私的太宰のオススメ作品ベスト3

短編
第3位 メリイクリスマス

第2位 トカトントン

第1位 桜桃

中・長編
第3位 女生徒

第2位 人間失格

第1位 斜陽

いずれも青空文庫で読めるので、気になった方はぜひ。