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日本語ラップ創世記

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日本でラップが生まれた時はいつなのか?

日本で最初にラップをやった人は誰だろう? 私は志村けんが、1980年に全員集合でやっていた「生麦 生米 生卵」ではないかと思う。志村けんが、アメリカのソウルシンガーであるウィルソン・ピケットの音楽に乗せて韻を踏んでいる。

また別の意見としては吉幾三の1984年のヒット作「俺ら東京さ行ぐだ」もラップと言える。

でも、一般的には「いとうせいこう」と「近田春夫」だと言われている。

いとうせいこうは現在はフリースタイルダンジョンの審査員を務めている眼鏡をかけたおじさんだ。

近田さんは、独特の早口で話すおじさんで、現在は音楽評論家である。

二人ともかつては時代の最先端にいた人である。彼らはアメリカで生まれたラップを「新しい音楽」として仕入れ、そしてそれを日本語で行った。

まず、1985年にいとうせいこうが初めての日本語ラップアルバム「業界くん物語」をリリースしている。

続いて1986年に近田春夫がマスメディアを批判する「Masscomunication Breakdwon」をリリースしている。

(これ見ると、ユウザロックにとって近田さんの影響がいかに大きいのかがよくわかる)

ただ、当時は今のようにヒップホップカルチャーを理解したうえでやっているという感じではなく、情報感度の高い人が「もっと自由な、新しい音楽はこれだ」という感じで手法としてラップを取り入れていたというのが実情だった。

特に韻についての近田春夫の意見が分かりやすい。

「日本語の場合、脚韻踏むのって、バカみたいなんですよ。(中略)脚韻に関しては、本来のヒップホップという概念を自分が咀嚼するとき、必要のないもののひとつに僕は数えているんだ」と語っている。

韻はラップのルールであり、サッカーでいえばオフサイドと同じ存在であるのに「僕は必要ない」という辺りが、サッカーを取り入れたのではなくボールを足で蹴ることだけを取り入れた感じであり、その辺りが当時の感覚だったのだろう(近田さんが例外かもしれないが)。

ヒップホップの始まりはパーティーにあった

そもそもヒップホップはいつどこで始まったのか? 発生はアメリカである。

ヒップホップを最初に生み出したのは、クール・ハークという人である。彼はあるレコードの特定の部分のブレイクに注目。そのブレイクから次のブレイクへと次々に繋げていった。そこで新しい音楽が生まれた。

やがて、それを披露する「ブロック・パーティー」と呼ばれるパーティーが行われるようになる。そのパーティーにおいてDJのプレイを盛り上げるために進行役のMCが生まれた。そしてそれが次第に独立してラップに変わって行った。同時にこれまでに無い動きをするブレイク・ダンスも加わった。そこに独特のグラフティ・アートが加わって、ヒップホップの4大要素である「DJ、ダンス、ラップ、グラフティ」が揃う。

こうした活動の中から何人かの有名人が生まれた。だが、一方で彼らが生み出した音楽はあくまでパーティーを盛り上げる音楽でしかなかった。

つまり、音源としてテープはあったが、レコードは無かったのだ。

だが次第に盛り上がりを見せるヒップホップに注目した音楽業界の人間が、彼らの作り出した音楽をレコードにした。

こうしてヒップホップは広く知られるようになった。

この辺の流れはNHKでデブラージが解説したのが分かりやすい。

(デブラージが毎回着替えてるのにも注目)

RUN DMC来日で日本にもヒップホップが伝わる

ストリートで生まれたヒップホップで最初にヒット曲を生み出したのが「RUN DMC」であり、彼らが来日したのが86年であった。

少し日本での時間を遡ろう。

1983年末には、ヒップホップカルチャーを紹介する映画『ワイルド・スタイル』が日本で上映された。DJ、ラップ、ブレイクダンス、グラフティの全てを紹介したドキュメンタリータッチの映画だった。

続いて1985年に「ヒップホップ」の名付け親でもあり、ヒップホップの創始に関わった3大DJのひとりアフリカバンバータが来日している。

だが、この2つの出来事を経ても単純に「おぉ、すごい」となったわけではなかったようだ。

80年ごろ、原宿にあった「ピテカントロプス・エレクトス」は、日本でもかなり早い段階でヒップホップをかけたクラブである。そこでアシスタント・ミキサーとして活躍していたダブマスターXは『ワイルド・スタイル』を見た感想をこう語っている。

「初めて、日本にトータルでヒップホップが来たのは『ワイルド・スタイル』が最初だったような気がする。(中略)映画そのものは、薄暗くてなにやっているか全然わからなかった。いま観れば、ああ、こういうことをやってたんだなってことがわかるんだけど、初めて見た時はなんだかわからなかった」という。

また、日本でヒップホップを最初にやった人物のひとりタイニーパンクスの高木完は『ワイルド・スタイル』の上映に合わせてラッパーやDJ、ダンサーなどが来日したイベントを見に行ったが、その感想は「びっくりしたなぁ、いや、よくわからなかったですよ」と語っている。

一番分かりやすかったのが「ブレイクダンスとグラフィティアート」であり、DJとラップは理解できなかったという。「延々とイントロがかかって、早口だし、みんなマイク回してたりして……」という意見だった。当時はパッと見ただけですごい動きだと分かるブレイクダンスに比べて、ラップは分からない、というのが反応として多かったという。

アフリカバンバータが来日した時も、彼らはバンドに乗せてラップをしていたので、DJではないんだ、と生のヒップホップを期待していた人をがっかりさせた。

それでもヒップホップに可能性を感じた人々は、ニューヨークに行って断片的に情報やレコードを仕入れる中で、それが何かははっきりとは分からないままに、手探りで自らも日本語でラップを始めるようになっていく。

そんな中で86年にRUN DMCが来日した。NHKホールなどで行われた公演をのちにさんぴんCAMPを主催するECDは会場で聞いていた。

「来日公演を観て、びっくりしたんです。彼らのレコードにはギターが入っていたからライブでもギターを入れてやるのかと思ったら、実際はターンテーブルとマイクだけだった。これはすごいなと思った」と語っている。

このオープニングアクトとしていとうせいこうやタイニーパンクス(藤原ヒロシと高木完)が出演している。ちなみにYoutheRock★が15歳で長野から出てきて、タイニーパンクスに弟子入りしたのも、1986年である。

なお、来日したRUN DMCは「いいとも」にも出てタモリとも共演している。その貴重な映像はこちら。

(タモリも中国語ラップをしているからオールドスクーラー!?)

雑誌やテレビはヒップホップをどう紹介したのか

メディアにおける黎明期の動きについて触れたいと思う。

RUN DMC来日の翌年から近田春夫が『宝島』『週刊プレイボーイ』などの雑誌でヒップホップを紹介。特に宝島は当時、音楽の最先端を紹介する雑誌であり、音楽に敏感な若者はテクノに続くダンスミュージックとして、ヒップホップに注目するようになる。

のちに『ヒップホップの詩人たち』を執筆する都築響一も、フリーランスの編集者として『POPEYE』に関わっていた頃に、初期ヒップホップの取材のためにN.Yに取材に行ったという。

新たに産まれた音楽がどんなものかを、音楽系よりも文化系の雑誌が中心になって取り上げているのが興味深い。

当時は「流行」というものが、すごく重要なワードであり、次に流行りはこれだ、というものがいくつかある中で「ヒップホップ」というのは、すごく大きな可能性を秘めたものだったのである。

ヒップホップはどうやって広がっていったのか?

1988年、「ピテカントロプス」に集まっていた高木完、藤原ヒロシ、屋敷豪太らがヒップホップレーベル「メジャー・フォース」を立ち上げる。

当初は、ECDぐらいしかアーティストがいなかったが、ここにやがてスチャダラパーが加わることになる。

こうしてレーベルが生まれる一方で、さらに若い世代がヒップホップをやり始める。

そのひとつは原宿の歩行者天国で生まれている。80年代の原宿「ホコ天」といえば、音楽活動の中心地だった。そこでは様々なバンドマンが演奏し、多様な音楽が鳴り響いていた。

その場所で80年代後半から当時は珍しいDJプレイを披露していたのが、「B・フレッシュ」だった。メンバーはベル、DJクラッシュ、クラッシュの弟のバンクの3人。

彼らがホコ天で活動している時に遊びに行ったのが、後にヒップホップ界で中心的な役割を果たす、MURO(ムロ)だった。MUROはそこでB・フレッシュと仲良くなり「ガタイが良いから」という理由でセキュリティとして彼らと行動を共にするようになり、次第にマイクを握るようになっていく。

これがやがて「クラッシュポッセ」、そして92年に結成された「マイクロフォンペイジャー」へと繋がっていく。
Krush Posse – Chain gang

MICROPHONE PAGER-病む街

さらに87年からはDJ機材メーカー主催による「DJアンダーグラウンドコンテスト」がスタートする。

このコンテストにはDJクラッシュの他、ECDや後に「DA.YO.NE」でブレイクするイーストエンドのGAKU、スチャラダパー、ツイギー、ライムスターの前身であるギャラクシーなども出演していた。

ヒップホップ界に生まれた3つの流れ

この時点で、もともと音楽業界にいた人が始めたメジャーフォース系、原宿のホコ天で生まれたB・フレッシュ、そしてコンテストの参加者たちという3つの流れがあったことが分かる。

つまり、ヒップホップに可能性を感じた人たちが、同時多発的に動きだしたのが、80年代後半だったのである。

いま、この文章の中の時代は1987年まで来ている。昭和で言えば62年である。バブル前夜。少しずつ日本全体が浮かれ気分へと向かっていく。六本木でタクシーを止めるために、1万円札をヒラヒラさせる時代だ。

先述の「DJアンダーグラウンドコンテスト」の1回目の優勝者はECDである。そして、2回目。ここに登場したのが「太陽に吠えろ」をサンプリングして、会場の度肝を抜いたスチャダラパーだった。

彼らはすぐに業界内で話題となり、メジャーフォースからアルバムをリリース。たちまち反響を呼び、90年にはメジャーデビューを果たす。

こうしてスチャダラパーが上昇気流に乗る一方で、ほとんどラッパーは音楽で飯が食えない状況にいた。時代はバブルなのに、である。

だが、この頃から各地で様々なヒップホップ・イベントが発生する。

まずECDが89年に下北沢で始めた「チェックユアマイク」。

ブラザーコーンプロデュースの「ウォッチミー」(クレイジーA、イーストエンド、ZINGI[このメンバーに童子Tもいた]、ライムスターらが参加)もスタートする。

そして下北沢ZOOでECDとユウザロックによって行われていた「スラムダンク」(ライムスター、マイクロフォンペイジャー、キミドリ、メロー・イエロー、ソウルスクリームの前身・パワー・ライス・クルーらが参加)が始まっている。まだオーディエンスは多くなかったが、その中に後のDABOもいたという。

その他に「ヤング・MCズ・イン・タウン」(ZINGI、イーストエンド、ライムスター始めたイベント、後にメローイエロー、リップスライムらを輩出。またZINGIが卒業した後は、参加者を中心に”ファンキーグラマー”というユニットを結成する)。

また同時期には日本人ラッパーによる初の全国ツアー「ホームベース」(スチャダラパー、高木完、ECDらが参加)がスタートしている。

こうしたライブ活動を通して、自然と同じ面子が顔を合わすようになり、次第に「日本のヒップホップシーン」が形成されていくことになる。

当時のシーンは険悪だった

「シーン」と呼べるだけの人数とイベントが出来上がっていく一方で、グループ同士は険悪なムードが漂っていた。

「誰は○○が嫌い」という噂が流れ、ラップでも悪口ばかりが繰り返されるようになる。スチャダラパーが「俺たちは邪道だもんな」と卑下するコメントをするのも、この頃はハードコア志向もスチャダラパーのような「ユルい日常」のラップもごちゃまぜの状態だったことに起因するのだろう。

また人気を集めるスチャダラパーとそれ以外という構図が妬みを生んだのも事実だろう。シーン全体でいえばイベントが増えて盛り上がっているように見えても、内輪の世界では互いを意識し合い、誰かレコード会社と契約した、レコードがどれだけ売れたなどの情報からくる妬みなどで、ぎくしゃくしたムードが生まれたのだろう。

状況を変える数々のヒットが誕生

その閉塞した状況を打破する前の準備段階として登場したのが、いかにも黒人風のブラザーコンとブラザートムの2人組「バブリガムブラザーズ」だった。

彼らの「ウォント・ビー・ロング」がヒットする。ラップではないが、この歌のノリは後のラップブームの下地作りには一役買った。

さらに92年には「たけしの元気が出るテレビ」で「ダンス甲子園」がスタート。若い人のあいだでブレイクダンスが大流行する。また同時にmcハマーが登場。ヒップホップを受け入れる下地がさらに整えられていく。

続いて「mc.A・T」(エムシーエーティー)が、1993年に『Bomb A Head!』をリリースし、ヒットを飛ばす。

そして94年に登場したのが、スチャダラパーと小沢健二による「今夜はブギーバック」。これが大ヒットを記録。その流れでイーストエンド+ユリによる「DA・YO・NE」が大ヒット。

こうしてラップはカラオケでも歌える、なんだか明るくて楽しい音楽として定着していく。

アンダーグラウンドで不満を溜める人たち

その一方で、ヒップホップはそういうもんじゃねぇだろう、と「ハードコア」路線をさらに追求する流れがあった。

その流れの源流と言えるのが、「クラッシュポッセ」(DJクラッシュ・ムロ・DJゴー)、そしてその後の「マイクロフォンペイジャー」(ムロ、ツィギー、DJゴー)だった。

のちに雷を結成し、中心的な役割を果たすリノは、当時のクラッシュポッセについてこう語っている。

「クラッシュポッセを見たんだけど、その時の衝撃は凄かった。日本人のラップはその他に見たことがあったんだけど、今までみたそれとは比べ物にならないくらい”クラッシュポッセ”はすごかった。客全員がジャンプしてて、ムロとツイギーのパワーに圧倒された。『うわ~くそ~かっこいい!』って叫んだのを覚えてる(中略)それまで英語でテキトーにやってるラッパーもいたんだけど、インチキだと思ってたし。それに比べてムロくんとかは全く違う世界を見せてくれたっていうか、すごいショックを与えられた。俺もマイクを握りたいって初めてこの熱い夜に思った」(注:ツイギーはクラッシュポッセにはいないはずなので、リノが見たのはマイクロフォンペイジャーだった可能性もあるし、また同時に当時のツイギーはムロの家に居候していて、イベントの時はステージに立ったそうなので、クラッシュポッセの可能性もある)

1995年にマイクロフォンペイジャーがファーストアルバムをリリースするが、その時には事実上の活動休止になっていた。

次に登場したのが、マイクロフォンペイジャーのツイギーを含む、雷(リノ、ツイギー、ユウザロック、GKマーヤン)だった。

DABOはその頃の雷について自らのブログでこう語っている。

「初期の「雷」は東京のヒップホップシーンそのものだった。そこにはリノ、ツイギー、ユウザロックにガマ、マーヤンにパトリックがいたし、マミーDやソウルスクリームもメンバーのようなものだった。ネイキッドアーツやメローイエローもやはりそこにいたし、ムロやベンザエース、DJヤスらがレコードを回し、客の中には俺やケイボム、ガリヤの面々などが混じっていた」

彼らを中心としたイベント「ブラックマンデー」「鬼だまり」「熱帯雨林」は、当時のアンダーグランドのシーンを代表するイベントとなっていく。

KAMINARI – 鬼だまりLive(96年)

当時のイベントの雰囲気について、ECDはこう語っている。

「雷のイベント、『熱帯雨林』がハンパないことになっている、とウワサを聞いてイエロー(クラブの名前)に遊びにいった。僕は最後のフリースタイルでなんとかマイクを持とうと必死だった。結局、ろくにラップもしないで苦し紛れにダイブをするぐらいのことしかできなかった。雷を前に僕ははっきりと自分を時代遅れだと感じざるを得なかった」

いなくなったメジャーの人たち

アンダーグランドが盛り上がる一方で、日本語ラップの開拓者たちはどこに行ったのだろうか? 実はいとうせいこう、近田春夫、藤原ヒロシたちは、すっかりラップ熱も冷め、あるものはハウスに流れ、ある者は執筆など、全く別の活動を行うようになっていく。

つまり、居なくなってしまったのだ。しかし、すでにシーンは彼らを必要とはしていなかった。むしろ「お笑い臭いイメージをなくそう」とかき消す方向に進んでいた。

1994年の10月にはヒップホップ専門誌「FRONT(フロント)」が創刊。ようやく情報がまとまった形で発信させるようになる。

ブッタブランドの登場

1995年は激動の年だった。

まずブッタブランド(デブラージ、CQ、ニップス、マスターキー)が日本に帰国する。90年代初頭にNYで結成された彼らの音楽は、日本のヒップホップとは全く異質の音楽だった。また、同時に日本語ラップとしての言語感覚も飛び抜けており、その存在は一気に注目を集めることになる。

彼らの帰国前にそのテープを聴いたECDは「ここ日本では生まれようのないラップだった。僕はツイギーやムロくん、会うラッパーごとに彼らのテープを聴かせまくった」と当時の衝撃を語っている。

Buddha Brand 人間発電所

キングギドラの登場

そして、もうひとつ当時のシーンに衝撃を与えたグループがキングギドラだった。ジブラ、ケーダブシャイン、DJオアシスの2MC、1DJスタイルのこのグループの登場は日本語ラップ界において衝撃だった。

もともとジブラは英語でラップなどをやっていたが、結婚を機に音楽から離れていた。そこに古くからの友人、ケーダブシャインが画期的なラップ法をジブラに伝える。

それについてのジブラはこう証言している。

「それまでの日本語ラップって韻踏んでたけど、最後の一文字だけ合うだけ、みたいなのばっかで。それって韻?みたいなことをずっと思ってた。でも、そこでケーダブが倒置法も使って、単語単位で韻を踏んできて、これだったら、すげぇかっこいいよ。ちゃんとアートフォームとして成立するよと思って。じゃあ俺もやってみようかなあ、って話になって。で、やってみたらできたんだ」

こうして結成されたキングギドラはまたたく間に評判となり、95年にファーストアルバム「空からの力」をリリース。リスナーから熱い支持を受けることになる。

また、この年には、日本語ラップにとって重要な作品となるライムスターのセカンドアルバム「エゴトピア」が発売された。

このアルバムについてDABOはブログの中で「日本語のラップで日本人にヒップホップという文化を広めるという当時の彼らが臨んだ課題をクリアする一撃」と語る。

そのうえで「シローのリリックは壮大なスケールで暴れ狂い、クレバーに毒を吐き出していった。ストーリーテラーとしても本領を発揮し、激昂しながらもクールに筋道を立ててフローしていくラップスタイルを確立した。一方のマミーDはこの頃すでに東京アンダーグラウンドヒップホップのアイコンの一人としてすっかりシーンに認知されており、「最近の若いラッパーは大体ツイギーかリノかジブラかマミーDに似てる」と言われるほどの影響力を持っていた。つまりシーンでも指折りのラップ巧者として認められていたわけだ」と熱く語る。

それだけのインパクトが、このアルバムにはあったのだ。

そして、この年の12月にはのちの「さんぴんCAMP」につながっていく、ユウザロックのラジオ「Hip Hop Night Flight」が始まっている。

般若が出た回。「HIPHOP NIGHT FLIGHT」(1996)

こうして革新的なグループも出そろう一方で、彼は怒っていた。

あるFM局のパーソナリティは「日本語ラップ撲滅運動」を行い、その一方でスチャダラパーを中心とした一派「リトル・バード・ネーション(LB)」は拡大していく。俺たちの方がすごい、という怒りはたまり、頂点に達しようとしていた。

さんぴんCAMPへ

それをまとめたのが雷のイベントで敗北感を味わったECDだった。彼が思ったことは、アンダーグラウンドでフラストレーションを溜め込んでいた連中の熱気、当時のシーンを何かの形で定着させることだった。

それがやがて「さんぴんCAMP」へと繋がっていく。当時のラッパーのほとんどが25歳前後だったのに対し、ECDはすでに30代後半だった。

そんな大人なECDが自分の気に入ったラッパーに直接電話をかけてブッキング。

96年7月7日、日比谷公会堂で行われたイベントが「さんぴんCAMP」だった。

当時最高の面子を集めた同イベントの出演者は以下の通り、ECD、HAC、シャカゾンビ、ソウルスクリーム、ユウザロック、GKマーヤン、ムロ、ライムスター、キングギドラ、ライムヘッド、UZI、リノ、イルマリアッチ、ブッタブランド(DJや客演として参加した人を除く)。

ちなみにツイギーは欠席。宗教上の理由、手術をした直後だった、海外でレコーディングをしていたなど様々なウワサがあるがECDによると、「彼なりの理由で辞退を申し出た」とのことである。

「反J-RAP」(mc.A・Tやスチャダラパー、イーストエンドなど)を掲げた、さんぴんキャンプは3000人を動員し、大成功。

特にこのステージで披露された伝説のマイクリレー「証言」(リノ、ユウザロック、ツイギー[当日は欠席したため代わりにユウザロックがラップした]、ガマ、ジブラ、GKマーヤン、デブラージ、UZI)は、クラシックとして今も語り継がれている。

LAMP EYE – 証言 (さんぴんCAMP)

さんぴんCAMP以後

さんぴんCAMPを経てシーンは確立され、彼らの認知度もあがった。同時にレコード会社も「ヒップホップは売れる」と判断し、次々とアーティトを抱え始めた。

こうしてアンダーグランドだったシーンがメジャーへと駆け上がっていくことになる。

だが、話はかんたんではなく、消えた人、レジェンドとして活動を続けた人と二極化していくことになる。

日本のヒップホップの歴史はこれで終わりではない。しかし、この文章は「日本語ラップ創世記」なので、ここまでで終わりとする。

「さんぴんCAMP」は、明らかに一つのピークだった。ピークとは過ぎれば下がるもの。つまり、さんぴんCAMPは始まりのようでいて、一つの終わりだったのである。

それは「アンダーグラウンド期」の終わりだろう。

当時ヒップホップ専門誌では「ヒップホップ村」という言葉がよく登場してた。ラップをやる人、DJをやる人の絶対数も少なく、力がないからこそまとまって活動を行っていた様子を表した言葉だったのだろう。

だが、さんぴんCAMPというショーケースを経たことで、この人の音楽を聞きたい、と言う人とそれほどではない人が出てきてしまった。つまり、あのイベントで活躍したユウザロックやジブラ、ライムスターなどが売れ始めたのだ。

クッキーの缶でいえば、僕は砂糖のついたやつが一番美味しいと思うが、あれだけ食べたい、となったら他の地味なクッキーは消えてしまう。

そうではなく、クッキーの缶の中にぎっしり2層で入っているのがあの商品の良さだったと思うのに、今はもうあの缶を見かけることはめっきり減った。それと同じ現象が起きてしまったのだ。

「詰め合わせ」で売っていた時代は終わり、売れる人は売れて、売れない人は前と変わらずアンダーグランドだった。その結果、ラップを辞めてしまった人もいる。HACみたいに。派手なイベントの裏でひとつの幸せな時代が終わったのである。

日本語のヒップホップは、どんどん進化し、音もテクニックも高度になっていく。その一方で初期ヒップホップだって捨てたものじゃないと思う。名曲は眠っているし、音だって今よりも重く、シンプルだからこそ伝わりやすいものもある。

また、近田春夫が「ラップって最初のうちに大きなテーマを歌っちゃったりすると、総論みたいなものを歌っちゃっているから、各論的な部分についてはもう歌えなくなっちゃう。そういう内容についてのことが、技術以前に苦労したというか大変なことでした」と語っているように、ラブソングのように同じ内容を手を変え品を変え歌うことができないのが、ラップの難しさである。

その意味では、初期のヒップホップの方がまだ手つかずな分だけ、テーマも自由にラップをしているように感じる。

新しいヒップホップを聞くのもいいけど、まずは創世記のヒップホップからしっかりと歴史をたどって、当時の息吹を感じてみてはいかがだろうか。
ちなみに、この後も、日本語ラップには色々な流れがある。その辺は、とんかつQ&Aがいちばんコンパクトに上手くまとめているので、そちらを見てもらえればと思う。

また、初期日本語ラップについてオーディエンスとしてシーンの変化を見ていたDABOの以下のブログもおすすめだ。ライムスターを中心にした構成で、現場に居た人の熱が伝わる必見の内容になっている。
参考文献:『Jラップ以前』後藤明夫、『東京ヒップホップガイド』(藤田正著・太田出版)、『ミュージックマガジン』(1995年6月号、2002年3月号)、『The Perfect Beats』(ECD監修・ミュージックマガジン増刊)、『フロント』(1997年4月号)『blast』(1999年11月号、2000年3月号、2000年11月号、ともにシンコーミュージック)、『Quick Japan』(1997年8月25日号、1999年8月20日号、2004年9月23日号)

※この記事は2008年に書いたものを大幅に加筆・修正したものです。