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面白い人になれるテクニックを教えます

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僕はずっと面白い人になりたかった。


教室で爆笑を取るあいつに憧れていた。

負けないように、僕も授業中に笑いを取りにいったが、彼にはかなわなかった。

彼は何気ない一言で教室中を爆笑させた。

あいつに勝ちたい。あいつみたいに面白い人になりたい。ずっと思っていた。

それから月日が流れ、いま自分は30代後半だ。今なら言える「面白い人になった」と。

僕は決して面白い人ではなかった。そして、努力して面白い人になった。天才ではないからこそ、人に伝えられることがあると思う。笑いには法則がある。そこにあるのは論理(ロジック)であり、それを実践するテクニックが必要だ。だが、それは学校では教えてくれない。

ここでは、僕が習得した誰でも面白い人になれる2つのテクニックについて、書いてみようと思う。

笑いについて多くの人が勘違いしているのは、人を笑わせるには「何か面白いこと」を言わなくちゃいけないと思っていることだ。

では、面白いこととは何か?一発ギャグみたいなものか。一発ギャグを覚えれば面白い人になるのか。そうではないと思う。先にいうと「人は面白いから笑う」のではない。「笑うから面白いのだ」。もう少し具体的に考えてみよう。

漫才はなぜ面白いのか?

笑いを取るためには、ボケを言わなきゃいけない。ボケとは何か?簡単にいえば「間違え」のことだ。つまり、ボケるとは、わざと間違えることである。

例えば、家庭において
「ねぇ、醤油とって」
「はい、どうぞ」
「これは、ソースでしょ」

となれば笑いは起こる。ここで重要なのは「ソースでしょ」という誰かの指摘が入ることで笑いが成立している、という点である。つまり、指摘してくれる誰かとの関係性が必要となる。ソロではできないのだ。

もうひとつ例を出す。

「高校の時にサッカーやってたんだ」
「へ~すごいね。スリーポイントシュートとか?」
「それはバスケだろ!」

面白くないけど、これでいいのである。

面白いのは、ボケた時ではなく、間違えを指摘した時に、人が「笑ってしまう」ことである。

なぜ、ここで人は笑ってしまうのか。

これについて、もう少し例を出して考えてみよう。

なぜ「例え」で人は笑うのか?

例えば、赤い上着を着た人が、ゴミがいっぱい入った白いゴミ袋を担いだ時に「サンタさんか!」といえば、人は笑ってしまう。揉み上げがやたら長い人に対して「ルパンか!」といえば、それも笑ってしまう。

これは「サンタ」とか「ルパン」というワードで笑っているわけではない。両方とも言葉だけ取り出しても全く面白くない。それでも人は笑ってしまうのだ。

もちろん笑う、という行為には色々な種類がある。全裸で街を走っている人を見ても笑うし、子どもは「おなら」というだけで大爆笑だ。

だが、とりあえず、「笑い」において、もっとも使い勝手がよく、誰でも習得できる、この「ボケ」と「例え」の2つについて、もうさらに掘り下げてみたいと思う。

「いないいないバア」で赤ちゃんが笑う意外な理由

赤ちゃんがいて「いないないバア」をする。ケラケラと笑う赤ちゃん。よく見る場面だ。大人は「こんな簡単な仕掛けでびっくりして笑うなんて」と思っているが、実はそうではない。

赤ちゃんの頭の中は「出てくるぞ、出てくるぞ、やっぱり出てきたぁ」と思って、笑っているのだ。ちょっと上から目線な感じで。

これはつまり「予想通りになった」から笑っているのである。ダチョウ倶楽部が熱湯に落ちる前に、色々とやりとりをしているのを見ながら「危ない落ちるぞ」と思ってみていて、やっぱり落ちた時に笑うのと一緒である。

「ボケ」と「例え」の原理は、この赤ちゃんのいないいないバアと同じなのである。

ナイツがヤフーをヤホーと言って、それを指摘した時に笑ってしまうのは、みんなが心の中で「ヤホーじゃなくて、ヤフーだろ」と思っていたけど、声に出さずにいたところで、突っ込みが指摘するからだ。

つまり、みんなの共通して思っているモヤモヤを一発で指摘すると、人は笑うのである。

なんでなんだろう?という疑問は残る。それは人類の進化の歴史だったり、緊張と緩和の法則だったり、色々と背景はあるんだと思う。理由はわからない。ただ、人は上記2つの条件の時に笑うのである。

では、この「ボケ」と「例え」について、もう少し詳しく解説してみよう。

その場にいる人が全員分かることを言う

「ボケ」や「例え」を使う時には、その場にいる人がどういう年代で、どういう知識を持っているのかを把握する必要がある。学校の教室では「国語の山内先生か!」と言えば、みんな笑ってくれるが、同じネタを家族にしても分からない。それは「山内先生」を知らないからだ。

そう、「知らない」と人は笑えないのだ。

つまり、できるだけその場にいるみんなが知ってる言葉をチョイスする必要がある。

一番分かりやすいのが生活に密着したもの、広く世間に浸透しているものが良い。具体的には、歯磨きや、コップなど、日本国民全員に共通する日常の中にある動作やモノを選ぶようにしよう。

日本の小説家で比喩の名手といえば、村上春樹だが、彼は最近のインタビューの中でこんなことを言っている。

「チャンドラーは『比喩は、意味性を浮き彫りにするための落差である』と語っている。だからその落差のあるべき幅を、自分の中で感覚的にいったん設定しちゃえば、ここにこれがあって、ここから落差を逆算していって、だいたいこのへんだなあっていうのが、目分量でわかります。逆算するのがコツなんです」と語っている。

これは「ボケ」も「例え」も一緒で、「落差」あるいは別の言い方でいえば「距離」を自分の中で設定するのである。

「しょうゆ取って」に対して「ソースを取る」というボケは、距離としては「近い」。だからといって「しょうゆ取って」と言われて「お店の伝票」を取って渡しても、きっとボケだと思ってもらえないないだろう。距離が遠すぎる。

最適な距離、つっこみの専門家でも無い人がなんとなく「あぁボケてるんだ」と分かる範囲ぐらいの、ちょうどいい距離を見つけることが大事なのだ。

実践編~ボケの場合

はっきり言って、この「ボケ」と「例え」だけで、かなりの笑いがとれる。しっかり観察すれば分かるが、いまの松本人志の笑いも8割はこれである。

では、この2つを実際に生活の中で使うにはどうしたらいいのだろうか?

ボケについては、距離は「近め」でいってみよう。

最初は質より量で、身近な人と一緒にいるときに繰り返しやってみる。しばらくすると、その相手は自分を「ボケる人」と認識してくれる。その関係ができたうえで「距離」を少しずつ遠くしてみよう。

どの距離までなら相手がツッコめるのか。それを把握するのだ。

電車でイスに座るときに、一緒にいる友達のモモの上に座る。これはオッケーだ。知らないおじさんのモモに座る。これは遠すぎる。間違えだ。

ボケを始めた当初は、どこまで距離を出せるのかと、飛ばしてしまうこともあるかもしれない。そこを経て、少しずつ最適な距離を探るのだ。村上さんの言うとおり、自分なりの目分量を見つけるのだ。

自分自身を振り返ると、「ボケ」の時は無理はしていない。誰でも突っ込めるように隣の隣ぐらいの距離に設定している。なぜなら僕の場合は、笑いの目的が「爆笑」ではなく「コミュニケーション」だからだ。

「場を楽しくする」ために、ボケているので、そこまで「距離」をとる必要はないのだ。だからおじさんのモモには座らない。

実践編~例えの場合

「例え」の方は、正直、かなり訓練が必要だ。例えれば良い、というものではないのだ。ちゃんと落差を意識しないといけない。

その訓練方法は、「お笑いの人がどう例えているのかを見る」ということで培うのが一番近道だと思う。その視点でテレビをみると、もうバンバンみなさん例えている。それを自分ならどう例えるかをシュミレーションしながら見てみよう。

ポイントは「ちょっと残念な感じに例える」だ。なぜかは分からない。ただ、現実として、例えを聞いて頭に思い浮かべた時に、「ちょっと残念な絵」が浮かぶと、笑ってしまう。

「3歳児が描いた絵か!」と言われるのと、「くたびれたおじさんの背中か!」だと、なぜか後者の方が面白い。

もうひとつポイントがあるとすれば、「物事をよく観察して、心にとまったものをキャビネットにしまう」ことである。

これも村上さんが「比喩のキャビネット」と言っていたことに多いに影響を受けているが、結局、普段どれだけ世の中を見て、面白いと感じたこと、切ないと感じたことをストックしているのかが大事なのである。

ティッシュ配りの人の面白い動きに気付くか、気付かないか。みんな見ているけど、だけど言われるまで気付いてなかった、というポイントにいち早く気付くためには、意識して周りを見ることが重要なのだ。

あと気をつけているのは、先述のとおり、特定の人しか分からないような「固有名詞」や「その時代特有の言葉」を避けて、その場の全員に共通する記憶から引っ張って来れるかである。

この「例え」については、いつから人前で言うのか、を判断するタイミングが難しい。「ボケる」と同じように、まずは失敗が許される親しい人にやってみよう。

そして、言う時は「短く、切れ味よく」を意識しよう。

例えば、いきなり金髪にしてきた友達に対して、「夏休み明けの高校生みたいだね」ではダメで、「夏休み明けの高校生かよ!」という力強さが大事である。

関東圏の場合は、さまぁ~ずの三村さんが参考になると思う。

本当に面白くなりたいのかを自らに問う

さて、もう分け分かったし、面白くなるぞ、と思っているあなた。その前に大事なことを聞かなくてはいけない。

それは「覚悟」である。

「ボケて」「例え」が上手くなって、笑いは増えるが、残念なことにあなたの「威厳」は減る。確実に減る。あと人間的な格、ランクみたいなもの下がる。ふざけた奴だ、みたいなポジションになる。

それを良しとするのか。それでいいのかをもう一度自分に聞いてみよう。身近なところに一人はいるお調子者ポジションに本当に自分はなりたいのかと。

僕は成りたかった。ああなりたい、という強い「意思」があった。だから、それなりのレベルに辿りついた。結局、大事なのは才能ではなく、その人の意思なのである。意思があって好きでやっていれば努力は努力ではない。

本当に面白くなりたいと思う心、それこそがスキルを身につける原動力になるのだ。

「これ読んで本当に面白くなれるのかなァ~」と思っている人は、まずは自分にそれを聞いたうえで、覚悟をもって一歩踏み出してもらいたい。面白くなって失うものもある。それでもいいのかと。

まとめ

人は面白いから笑うのではない。
・「ボケる」=「間違える」である。それを誰かに指摘されることで笑いが生まれる。
・「頭の中のもやもやしたもの」を一発で指摘すると人は笑う
・その場にいる全員が「分かる」ものに「例える」と笑いが起こる
・ボケる時は「距離」が大事。最初は近くから。
・例える時は「ちょっと残念な感じ」に短く切れ味よく例える。
最後に自分は本当に面白い人間になりたいかを問うたうえで、身近な人を相手に実践していく。

もちろん最初は上手くいかないだろうと思う。「おまえ、つまらないボケすんなよ」と言われて、へこむ時もあるかもしれない。だが、笑いをとれる、というのは人生においてかなりのアドバンテージだと思う。恋愛においても、人間関係においても、健康においても。

なかなか長文になってしまったが、「面白い人になりたい」と願う人にとって、少しでも役に立つものになっていれば、これに勝る喜びはない。

文中で紹介した村上春樹のインタビューはこちらの本に載ってました。