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日本語ラップの開拓者YOU THE ROCK★(ユウザロック)を語る

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プロローグ

かつての日本のヒップホップ界を牽引していていたのは、間違えなくユウザロックだった。その存在は特別であり「兄貴」「完璧ティーチャー」そして「日本語ラップ代表」として君臨していた。

ライブではいつだって全力で客席を盛り上げてた。そんな彼が大麻取締法で逮捕されたのは、2010年2月のことだった。

裁判ではラップを引退する、と言いながらいつの間にか復活している。そんな彼の存在をどう捉えればいいんだろうと思っていた。

それが少し氷解したのは、2つ理由がある。

ひとつは清原が覚せい剤で逮捕された事件で気付いたこと。もうひとつがいまyoutubeにあがっている、THA BLUE HERBのボスとのインタビューで見せた彼のヒップホップへの姿勢だった。

まず清原の件について。この事件を見ながら僕が考えたのは「パブリックイメージに食われること」についてだった。それは数日前にキングカズが表参道のオープンテラスでサングラスをしながらコーヒーを飲んでいる姿を見たことと関係があるかもしれない。その姿はまるで「みんながイメージするキングカズ」を演じているように見えた。

それは清原だって同じかもしれない。番長、番長と言われ、188cmでムキムキのすぐ目立つ容姿。声をかけられることも多かっただろう。そんな彼はもしかしたら「みんながイメージする清原」を演じるうちに気付いたら、向こう側にいってしまったのかもしれない。

つまり、ヒーローを作るのは民衆であり、ヒーローはヒーローを演じようとするが、ある時にそれに疲れて道を踏み外したとき、人々は彼を「がっかりした」と罵倒する。でも、ヒーローに託すだけで何もしなかったやつらにヒーローを罵倒する資格はあるのだろうか。

清原のニュースを見ながら、そんなことを考え、そしてユウザロックに対する見方が少し変わった(これはあくまで僕が書くための動機の話であって同意するのは難しいと思うけど)。

そして、もう一つ。2015年にユウザロックがThe Boss(ブルーハーブのボスのソロネーム)と共演するにあたって行われたYoutubeにあがっている二人のインタビューで、ボスが言ったのが「ゆうは俺のライブに来てくれていたんだよね。2回ぐらい。普通に客として。それで電話番号をスタッフに渡して帰っていったんだ」という話だった。

きっと彼は普通にボスのライブが見たかったんだと思う。一人のヒップホップを愛する人間として。金払ってでも。

そこから二人は初めて中目黒で飲んで、共演がきまったという。因縁があった二人だが、それを乗り越えたのだ。しかも、ユウザロックの側から歩み寄って。そして、ボスがユウザロックにオファーをしたのだ。第一線から引いた彼に。まだラッパーとして終わってないんだ、そう思った。

その姿勢に少し心が動いた。それでこそユウザロックだと。

重いやつほど足跡は深い。やはり、この人の歩んできた道は日本のヒップホップの歴史に欠かせない。もう完璧なティーチャーだとは思わない。でも、それは貴重な「証言」だと思う。

それでは彼の半生について振り返ってみようと思う。

小学生でヒップホップにはまる

ユウザロックが生まれたのは、東京の銀座にマクドナルド1号店がオープンした昭和46(1971)年のことだった。

9月5日に長野県で生まれた後にユウザロックとなる竹前裕は、教育に熱心な家庭に育ったようで、小学の時に受験をして、信州大学教育学部の付属に入学している。

「そこは教育学部のモルモットだから、色々実験的な教育をしてて、教科書が無いわけ。制服もない、成績表もテストも無いの。裸足なの。時間割が無いの」という学校で多感な小・中学校時代を過ごす。

そんな彼がヒップホップと出会ったのは小学校5年生の時。とんねるずのオールナイトニッポンで初めてラップを聴き、そして衝撃を受けた。

それから彼はヒップホップへのめり込んでいく。

だが当時は今と違ってネットもなく、ヒップホップに関する情報を得る方法は圧倒的に少なかった。しかも彼のいた場所は長野の山の中である。

そんな中、ヒップホップを流している『ナウ・ゲリラ』というラジオ番組があった。しかし残念なことに彼の家では受信ができない。すると彼は山の上なら受信できることを発見。それからは毎週ラジオの時間になると、その山のてっぺんまで行ってアンテナを立てて聞いていたという。

当時、すでに日本でもラップをやっている人がいた。それはタイニーパンクス(高木完・藤原ひろし)、近田春男などだ。ユウザロックは彼らにハマった。しかし周りは誰も彼らのことを知らない。理解してもらえない苦悩を抱えた日々が続いた。「ずっと泣き寝入りだよ」と後年、彼は語っている。

親父の前で泣きながら初ラップ!

彼の人前での初ラップは衝撃的である。

それはユウザロックが中学校2、3年の時だった。客はなんと親父である。

かねてから、どうしてもDJやラッパーというものを理解してくれない親父にいらだっていた彼は、ある日、溜まっていた物を吐き出すように泣きながら親父の前でラップをしたという。

この場面を想像して欲しい。

今なら「DJになる、ラッパーになる」という言葉も市民権を得ている。しかし、これは現代の話ではない。まだ本当の意味で日本にヒップホップがない時代の話である。宇宙飛行士になるの方がまだイメージしやすいだろう。親父が「おまえは何を言っているんだ!」となったことは想像に難くない。それに対して、彼は泣きながら近田春男の「HOO! Ei! HO!」をラップしたのだ。

だが、そんなユウザロックがついに夢への第一歩を踏み出す。

「家庭環境がメチャクチャになって。兄弟もすごく多くて、経済的にも余裕がなかったから、俺、中学の時から働いてたし、全部自力でやってたから、中学を卒業したら完全に自立するつもりだった。東京にはヒップホップをやりにきた。88年」

そう、彼はわずか15歳で上京したのだ。

ヒップホップがやりたい。その気持ちだけで高校にも行かず、上京する。それはもはや狂気のレベルである。だが、だからこそ彼はパイオニアになれたのだ。

そうだな、とりあえず、高校まで行って、大学で東京で出てクラブに行きながら、、なんてプランを描く人とは次元が違うのである。

後に長野時代を振り返って彼はこう語っている。

「いまだに長野に帰ると思うんだけど、『こんな山の中でヒップホップ聴いてたんだな』って。情報が入んないんだけど、その分、自分なりに考えたり解釈をしたことによって、皮膚感覚でヒップホップが聴けた。田舎でラジカセ持ち歩いてヒップホップを鳴らしたりとか、そういう行動が俺にとってすごく大事だったんだよ」

人殺しとホストとヤクザ以外は全てやったね

上京したユウザロックは早速、以前から行ってみたかったディスコに向かう。

「クラブには入れてもらえなかった。まだ15だったし、そんな金も無かったし。芝浦インスティクの川っぷちの倉庫の壁に耳はりつけて聴いてたんだよ、入れないから。それでスケボーで芝浦から恵比寿まで帰るとか。満足にライブを見たことなんか、一度もないよ。でもヒップホップは、常に頭の中で鳴っていたよ」

ヒップホップへの純粋な愛とハングリーさが伝わるエピソードである。

それにしても家出した15歳の少年は一体どうやって東京で生活していたのだろうか?

プロフィールでは上京後、タイニーパンクスに弟子入り、となっているが鞄持ちレベルでギャラはでないだろう。

生活の金は自分で稼がなくてはならない。

「人殺しとホストとヤクザ以外は全てやったね」。

彼はその間の生活をこう語っている。

もう少し具体的にいうと、クラブの店員からポーカー屋、平和島の埋め立て、歌舞伎町ビジネス全般。そしてホモビデオの面接に行ったり、2丁目で働いたこともあるという。「でも俺、カマほられてないよ」という一言にちょっと一安心だが、それにしても壮絶である。

彼のバイト時代の話はまだまだ続く。

薬の販売前に安全性をテストする、いわゆる「人間モルモット」の臨床実験も彼は経験している。しかも1週間で30万円。私の知っているのは1週間で12万だから、相当にリスクが高い実験を受けていたことになる。

そして、19歳でDJバーで働くことになり、そこで最初にコンビを組むことになるDJ BEN THE ACEと出会う。

風呂無しの部屋に住んでいたため、仕方なく彼はDJバーの洗い場のシンクで体を洗っていた。その頃は「いつになったら足を伸ばせるんだろうってずっと思い描いてた」という。

ちなみに当時はDJバー以外に、3つの仕事を掛け持ちしていた。昼間は下北沢の中古レコード屋で働き、夜はDJバーで朝まで。そのまま寝てウエンディーズへ。夕方から東京中央郵便局で仕分け作業。そんな生活を続けた。そして入った金はレコードにつぎ込み続けた。

「(住んでた場所は)恵比寿。恵比寿とか代官山とかしか住んだことないから。オシャレに金はつぎ込んだりとかしてて、そういうアーティスティックなポテンシャルの部分だけは下げられないっつーか。『夜霧のハウスマヌカン』みたいに、ギャルソン来たり、ヨージ・ヤマモト着てんだけど、ゴハンはのり弁、みたいなことだよ」

さらに「喉から血が出るくらい練習して、ラップコンテストにも出まくっていた」時期でもあった。

『THGHT BUT FAT』でメジャーデビューを果たす

そうした努力の結果、次第にコンピレーション盤や外国人タレントの前座なども務めることが増えてきた。そして、いよいよ盟友・DJBEN THE ACEと共に92年に『ネバァー・ダイ』、93年にはコロンビアより『THGHT BUT FAT』でメジャーデビューを果たす。

しかし、同時期に著作権法が変わり、なぜかこのアルバムがやり玉にあがった。結局、半年で回収となり、会社との契約も解除される。

それでもヒップホップを続けたかった彼は、この時にニューヨークに行っている。

そこでユウザロックは生のヒップホップを体験した。彼が行った時代というのは、アメリカで生まれたヒップホップがどんどんメジャーになり、人々の生活に浸透し始めた、最も熱気に溢れていた時期だった。ラジオからは常にヒップホップが流れ、人々の生活の中にヒップホップが溢れていた。

そこで再び熱いエネルギーもらった彼は、日本語ラップ冬の時代と言われる中で活発に動き始める。

すべてがうまく回り始める

ちょっとここで時代背景を整理しよう。

彼がデビューしたのが92年。

その前年には「元気が出るテレビ」でダンス甲子園がブームになっている。つまりブレイクダンスが流行っていた時代だ。また同時にスチャダラパーもデビュー。実質的な日本語ラップのスタートとなる、伝説のグループ・マイクロフォンペイジャー(ムロ、ツイギー等)も活動を開始している。

アンダーグラウンドで、動き出したヒップホップ。だが社会はバブルの絶頂期だった。日本中が浮かれきっていた時代に熱く叫ぶハードコアなラップは支持されなかった。

この頃の彼は不遇だった。

外タレの前座で出ると缶が飛んできて、罵声を浴びせられる。「お前も俺も日本人で、お前も俺もヒップホップが好きなのに、なんで耳が傾けられないんだ。お前ら黒きゃいいのか」、そう叫んでも聞いてもらえなかった。お呼びでない。それが日本語ラップの現状だった。

ただ様々な経験を経て、さらに当時としては貴重なCDリリース経験もある彼は、すでに周りとは違うオーラを放ち始めていた。

当時のユウザロックについて雷(現在、ユウも所属するユニット)のリノはこう語る。

「93年に下北沢で『スラムダンク』というイベントがあった。そこでユウザロックと初めて出会った、最初30位のオジさんじゃないかと思った(実際は22歳)。その時から彼にはスゴク風格が漂ってた。『ユウです。ヨロシク!』って、今でも忘れられないよ」

先述のリノもそうだが、90~95年頃まで、日本語ラップを行う人が増えてきた。その代表格は、マイクロフォンペイジャーだったが、その他にも数多くの人がヒップホップの磁力に引き寄せられていった。

だが絶対数はまだまだ少ない。必然的にライブなどで同じメンツが顔を合わすことになる。そして次第に彼らは仲間意識を持った。

ブラックマンデー・雷の結成

94年、ユウザロックは彼らを集めてクラブが一番ヒマな月曜日に『ブラックマンデー』をスタートさせる。

「マイクを握る場所がなかったから、自分で作った。野郎を40人くらい集めて、2、3百円しかギャラは出ないんだけど、毎週やってた。2時間でも3時間でもずっとフリースタイル(即興のラップ)を皆でやってた」

そして、この年に突如「今夜はブギーバック」「DA・YO・NE」が大ヒットする。わき上がる大衆とは裏腹に、当時、ブラックマンデーに参加していたメンバーは怒っていた。あれはヒップホップじゃない。

そして同年、伝説のグループ「雷」が誕生する。きっかけは、テレビ東京の「浅ヤン」だった。ある時、ブラックマンデーに「浅ヤン」のスタッフが遊びに来た。

そのスタッフは「今度、ラップの大会があるから出てくれないか」と彼らに声をかけてきた。最初は断っていたが、変なラップが「これがラップだ」と紹介されるよりはと即席のユニットを結成する。

そこには明らかに世の中のJラップブームへの怒りがあった。

そんな時代に「雷」を落としてやる。そんな思いから雷は結成された。

いざテレビ出演の際には覆面をかぶり、30数名がマイクリレーを行った。圧倒的なパフォーマンスを見せた彼らは当然のように優勝する。そしてそれが最終的に、ユウザロック、リノ、ツイギー、GKマーヤンの4人のMCとDJYAS、DJPATの「雷」として結成される。

偶然から生まれたユニット「雷」を中心とした日本語ラップの波は、やがてさらなる舞台へと上っていく。

「暗夜行路」「熱帯雨林」と拡大するイベント

日本語ラップは、アンダーグラウンドな場所でゆっくりとコアなファンを増やしていった。まだヒップホップの専門誌もなければ、インターネットもない。全て口コミとリピーターだった。

95年、「ブラックマンデー」の発展形イベント「暗夜行路」がスタート。当初は80人しか入らなかったが一回ごとに人数も増え、次第に会場も大きくなり、イベント名も「熱帯雨林」に変更。その中心的な存在はそこでもユウザロックを含む雷のメンバーだった。

95年、もう一つの動きがあった。それは彼のラジオが始まったのである。

かつてニューヨークで味わったヒップホップだけを流すラジオが忘れられなかったユウザロックは、やがてアメリカのヒップホップカルチャーに影響を受けた漫画家・中善寺ゆつこと知り合い、「力になってあげる」と言われ、「ヒップホップ専門のエフエムがやりたい!」と言った。

その結果、誕生したのが、95年10月から始まった東京エフエムの「ナイトフライト」だった。これは不定期ながら日曜日の深夜2時から5時まで放送された。新聞の番組表には深夜過ぎて載らず、聞きたい人はレコードショップのフライヤーなどで放送日を知る、という独特なスタイルだったが、だからこそ熱い時間が流れていた。リスナーとの電話やファックスを通した熱いやりとりは、今では伝説となっている(現在はyoutubeで聞くことができる)。

また95年には、マイクロフォンペイジャー、ライムスター(宇多丸、マミーDなど)、キングギドラ(ジブラ、Kダブシャインなど)が揃ってアルバムをリリース。いずれもその完成度の高さと類い希なスキルで日本語ラップの新たな可能性を予感させるには十分な出来だった。

日本語ラップ最大のイベントさんピンCAMP

そしていよいよ96年の7月7日、伝説のイベント「さんピンCAMP」が日比谷野外音楽堂で行われる。

果たしてこんな大きな会場で人は集まるのか?

そんな不安を吹き飛ばすように続々と人が集まってきた。

「Jラップは死んだ。俺が殺した」。ECDのそんな叫びから始まったこのイベントには、当時の日本ラップの主要なメンバーが勢ぞろいしていた(ツイギーはレコーディングのためニューヨークに滞在で欠席)。当然、ユウザロックもいた。観客はそのライブに熱狂し、そして酔いしれた。

彼はステージで一曲目を終えると大声で叫んだ。

「みんなよく来たな」

この一言には色々な意味が含まれていたと思う。

今となっては伝説のイベントと言われる「さんピンCAMP」だが、当時は出演者もそして観客もみなマイノリティーだった。ダボダボの服を着た若者たちを親や友人は理解せず、冷たい目で見ただろう。ただヒップホップが好きなのに「不良」の一言で片づけられ、理解してもらえない苛立ちを抱えた人も大勢いた。

大げさだが彼らはある種「差別」されていた。そんな人たちが、このイベントのために地方から電車を乗り継いでやってきたのである。

「みんなよく来たな」。この一言には、そうした冷たい視線を乗り越えてきた観客への愛情とマイノリティー同士の友情が溢れていた。

この場面に象徴されるように、このイベントの観客と出演者の一体感は異常と呼べるものだった。その理由は先述の仲間意識と「時代はヒップホップを中心に動き出す」という共同幻想にあった。

さんピンが終わって変わった環境

さんぴんCAMPと同じ年の約半年前、1月に行われた「チェックユアマイク」というイベントの販売枚数は48枚だった。その半年後のさんぴんでは3、200人が集まった。やってることは同じでも、規模と環境がガラッと変わった。その変化について彼はこう語っている。

「どこに行っても握手を求められたり、留守電も毎日「ヨンジュウハッケンデス」とかそういう…いや、もう笑えないんだよ。(中略)昨日はどこどこでライブやって、今日はどこどこで…って、もう一ヶ月酔いぐらいの勢いで酔っぱらってて、それで人気だけが独り歩きして『ユウ・ザ・ロックみたいになりてえ』とか言われても、俺はそんなに金持ってないし、自分の彼女食べさせるのも犬かわいがるのも大変だよっていう状況で。

いや、やっとレコード会社と今年から2年契約したから、金の心配はいらなくなったんだけど、そういうことじゃなくて、自分が自分でなかったというか。

ステージで「自分を持て。自分を信じろ」って言ってる俺に自信がなくて、ユウ・ザ・ロックを演じてしまったというか…そんなこと言ったら、カッコ悪いと思うけど、そうしないと俺が前に進めなかった」と当時の混乱ぶりを語っている。

また同年には、インタビュー中にもあったレコード会社・カッティングエッジと契約し、「サウンドトラック96」をリリースしている。

この先のストーリー

ユウザロックのその後の活躍はみなさん御存じのとおりだろう。テレビに出て、司会をやって、マルチな才能を発揮して、TVCMにも出た。

その一方で、ヒット曲にはめぐまれなかった。

98年には原点回帰とも言える、親父の前で泣きながらやったラップ近田春男の「HOO! Ei! HO!」をカバー、「UNTOLD STORY」などの名曲もあった。それでもダメだった。

それはみんなが求めるユウザロックと、常に進化した姿を見せたい本人とのギャップが原因だったのかもしれない。

やがて彼は「正直ヒップホップ聞けないんだよね。ループが入ったやつとか」「ラップが好きだったにも関わらず、もう大嫌いですね」という発言をするようになっていく。

「俺を信じている人が何人もいるんだ 前向きなポジティブを応援してくれる それを受け止めて 俺が熱く返す」(バックシティブルースより)とラップした彼から少しずつ熱が奪われていった。

それでも、ライブで見る彼はやはり特別な存在だった。ステージを降りて一緒にダンスを踊ったり、巧みなトークで客を沸かせたりとサービス精神旺盛な「ヒップホップの伝道者」としての姿がそこにはあった。2005年ごろにライブでのユウザロックの迫力に魅了された僕は、3日間で2回もユウザロックを見に行ったりしていた。

だが、人気は下降していった。そして、2010年、悲しいニュースが飛び込んできた。

あるインタビューで彼は「俺を好きだったら、俺を否定しろ。そこから生まれるのがほんとのコトバだよ」と語っている。

そうだな、と否定するのは簡単である。2015年のボスとの共演の動画インタビューでは「俺はもう表舞台からはさ、引いて」と語っており、ライブ活動やメディアにも出ているが地上波ではすっかりご無沙汰だ。フリースタイルダンジョンでヒップホップが盛り上がる今、レジェンドとしてやれることはあると思う。

「待たせたな、みんな」

あのよく通る声でフリースタイルダンジョンのステージに立つ、ユウザロックがまぶたに浮かんだ。もう一度見たいと思った。

まだ終わってないはずだ。

おまけの名言集

以下は、資料を集めていたときに出てきた名言集です。

●クイックジャパン1997年8月25日号より

「『日本語ラップは生き残れない』って言い続けてきた、マスコミ、メディアをはっきり言って心底恨んでる」

●フロント1998年8月号より

「オレがヒップホップだと思ったものが全部ヒップホップなんだよ。川の流れの音だろうが、虫の声だろうが、風の音だろうが、歌いたいと思った時にその音でラップができる。そんなMCにオレはなりたいんだ」

「若い奴だけ、分かる奴だけ分かればいいって考えはナンセンスだと思うね。(中略)分かんない奴にも分からす方が強いっていうかさ」

「『Back City Blues』でオレは凄いことを言ってる。”オレがオレであった時のことを話そう”ってね。オレは残念だけど、もうあの東京に出てきた時のオレじゃないんだ。でも、あの頃のオレを愛してるし、リスペクトしてる」

「言葉はウソだってコト。他人に何かを伝えたいから生まれたのが言葉であって、それは人類最高の発明だと思うけど、言葉はあくまでツールに過ぎないんだと。万能じゃない。本当の気持ちを全て言葉で表そうとするのは無理なんだ。だから言葉はウソなんだよ。でも、そこに気持ちを込めるコトはできるし、オレの言ってることはリアルだ。矛盾してるかもしれないけど、矛盾してないモンなんて逆に信じられないだろ? だからオレはリリック(詩)を書いている時に消したりしない。消したらそれはリアルじゃなくなっちゃうから。人に見せたくなくて消しちゃう部分こそが一番知りたい事実だったりもするんだよ。オレはハズかしい部分も悩んでる部分も全部さらけ出す。それがリアルってコトなんだ」

「オレのやってるのは90年代のロック、21世紀に向けたロックなんだ。宇宙のロックつーかさ。ロックだからって髪たてたり、楽器を持つとかっていうんじゃない。ロックは精神なんだ。だからヒップホップはロックなんだ。”グラフティロック”なんだ」

●ミュージックマガジン1998年3月号近田春夫との対談より

「カッティングエッジと契約してセルアウト(自分を売った)だってすごく言われましたよ。だけど、俺セル・インだって。入って内部から爆弾を作って爆発させてやるぜって」

「完ちゃん(高木完)や近田さん(近田春夫)や藤原ヒロシとかに、種を植え付けられたんですよ。完璧にもう。中出しされて妊娠したっていうか。その種どうしてくれるねんってマジで思って、近田さん達にも怒ってた時期があって。みんなハウスとかに行って…」

「ヒップホップがやりたければヒップホップ以外を聴け」

リスナーがレコードを集めている現状に対して
「テメエで作って、テメエで向こうの奴らに発表すればいいじゃねえかっていうか。それが恩返しだろうっていうか。テメエらで消化するんじゃなくて奴らに返してやれよっていうか、それがヒップホップだろう」

「ヒップホップは誰でもできる。何でもありで誰でもできてお金がなくてもできる。アイディアとかエネルギーがあれば誰でもできるっていうこと。これが今の子達はない。機材なけりゃいけないとか、服着なきゃいけないとか、ライミングしなけりゃとか、違うだろって思います。何にも考えがなくても伝えたいことがあれば…」

●2000年頃のオリコン誌より

「今だったらラッパーにならない。だってブルーハーブやシンゴ2を越えなくちゃいけないから」※ブルーハーブ・シンゴ2は共に当時のヒップホップ界に衝撃を与えた新人ラッパー

●別冊週間実話2001年7月2日号より

AVは観ますかという質問に答えて、
「俺、AV嬢に同情しちゃうからダメなんだ。なんでこんなかわいい子なのに脱いじゃって、相談してくれれば俺がどうにかしてやるよ、みたいな。お金に困っているのか、みたいな(笑い)。ほんとに。すごい感情移入しちゃうんだよね」

●2005年渋谷HMVインストアイベントの質疑応答

キャバクラにはどれくらい行きますか?
「3年くらい前に『さみしんだ』と気づいてから、行かなくなったね。今は全く浮気もしないし、オナニーも年に2回くらいしかしない。ほんとに。最近は性欲よりも睡眠時間とかの方が大事だね」

いまの日本のヒップホップシーンをどう思いますか?
「あんまりそういうことを考えない。俺の曲がニューヨークとかでかかってたら面白いじゃん。そういうことを考える。例えばタラコスパゲッティとか、外国のものを日本に取り入れてもっと美味しいものを作っているのは沢山ある。どうせヒップホップはもともと借り物なんだから、それをどう日本風にして、世界に出せるか、そういうのを考えてる」

最近のディス(ヒップホップの言葉で相手をけなすこと)騒動(※2)のことをどう思いますか?
「カンとダボとか、ケーダブとデブラージとか色々あるけど、例えば、誰かを殴ったら絶対に殴り返してくる。それが当たり前。でも、その繰り返しじゃあブッシュとテロと一緒じゃん。それにヒップホップの小さな世界でそんなことをしても何も生まれない。俺も昔は『スチャダラダラした目から(※証言の一節)』とかスチャダラのことをディスしたり、すごくディスを気にしてた時期もあったけど、でも今は気にしないし、そういうのは意味ないと思う」

●ウェストランド2001年1月30日号より

「揺るぎない勇気を詩に書ければ、俺にとって幸せなんだよね」

「自分で見たこと、聞いたこと、確かめたことだけに影響を受けてるから。だから本当にマンガとか映画とか小説とか見ない、一切。自分の眼で見てる風景の方が全然センセーショナル」

「バカにバカって言っても頭良くなんないから「僕はお勉強しなきゃいけないんだ」っていう気持ちにさせるためには、飴と鞭じゃないけどエンターテイメイトが必要なんだよ。コラーって言うと、やっぱ人は逃げていくじゃん」

「街の落書きは増えてくし、ヒップホップは増えてく。これは若者が発言したがっているメッセージなんだよ。おっさんたちわかんねえのかな、ほんとに奴らは自分一人で、自分と戦ってるんだぜってのをわかってやってくれよ」

「芸能人。汗かせ、汗、てめーら匂わねぇんだよ、って。俺はさ。チンカスとか汗臭さとか目ヤニ、鼻クソとか鼻汁をぶつけるっていうか、だからみんなが動くんだよ」

「よくお喋りだって言われるけど、それは、それだけ人に対して一生懸命なんだよ。でも、俺は何も用いてないよ、すごく人に対して緊張感あるから、その人に対して一生懸命自分の気持ちをぶつけるんだよ」

「ストリートって言っても、商店街みたいなもんだからさ。普通に自分ちの前でもストリートだと思うし。ストリートっていうのは、すなわち人が生きてる場所っていうか、そこから生まれる音楽っていうのは歌謡曲であっても普通にストリート・ミュージックだと思う」

「今まではさ、ゲバ棒とかプラカード持ってデモしてたかも知んねぇけど、俺たちはそんなんで変えられるわけねぇって知ってるから。石投げてもガラスが割れるだけだけど、人の心は変わらねぇし、破れないじゃん。だから俺は違う武器で戦ってみようと思ってる」

見ておくべき動画とおすすめの曲

さんぴんCAMPにも収録したタワーレコードのマス対コアの様子。当時のユウザロックの人気ぶりが分かる。

さんぴんCAMPでのライブ

初期の名作「Over The Border」

ボスと共演するユウザロックのインタビュー

名曲「FUKUROU(YAKANHIKOU)」

隠れた名曲「 GRAND MASTER FRESH Pt.2」

隠れた名曲2「ROCKY★ROAD(友情BBS)」

アルバムを1枚だけ選ぶなら間違えなくこちら。96年の日本のシーンを取り巻く空気感すべてを閉じ込めたクラシック!

※この記事は2005年に書いた記事を大幅に加筆修正したものです。