きなこなん式

相倉久人に聞いた素人時代のタモリの話

相倉久人(あいくらひさと)さんが亡くなったのを知ったのは、今年に入ってからだった。ネットで検索したら昨年亡くなっていて驚いてしまった。

 

相倉さんは僕の恩師である。いまは無くなってしまった専門学校の担任の先生だったのだ。

 

その学校は卒業制作で、生徒が書いた文章をまとめて冊子を作るのだが、僕はタモリについての考察をまとめた「タモリに学ぶ会話術」という文章を書こうと思い、相倉さんにインタビューをさせてもらった。

 

タモリが上京し、伝説のバー「ジャックの豆の木」に来た時、相倉さんは同席していたのだ。授業でその話をしていたので、その時の話を詳しく聞きにいった。

 

相倉さんと有名ミュージシャンとの親交はある程度知られているが、タモリとの話はあまり語られてないように思える。

 

ひょっとしたら、僕は相倉さんにタモリについて聞いた唯一のインタビュアーかもしれない。

 

一部は「タモリをリスペクトせよ!」に書いたけど、全部は入れてない。記憶を頼りになるが、貴重な話だと思うので、改めてまとめてみた。

 

偉大な評論家・相倉久人

 

そもそも相倉久人とは、いったいどんな人物なのだろう。簡単に説明しようと思う。

 

出身地は東京である。1931(昭和6)年に大森で生まれている。東京陸軍幼年学校在学中に終戦を迎え、その後、東京大学文学部美学美術史学科に入学している。

 

東大生だったわけだが、本人によると「当時の東大はつまらないやつばっかりだったけど、上の5%と下の5%は面白かった。僕は下の5%」だったらしい。

 

その後、大学を中退して、1959年に『ミュージックライフ』でジャズ評論家としてデビューを果たす。この年はマイルス・デイヴィスが『カインド・オブ・ブルー』をリリースし、翌年にはジョン・コルトレーンがマイルス楽団から独立し、ソロ活動を始めている。ジャズが新しい時代に突入した年だった。

 

このコルトレーンの評論などで注目を集めるようになり、評論家としてのキャリアを積み重ねる一方で、軽妙なトークを活かして、新宿ピットインなどで司会を務めながら、若手ミュージシャンと交流を深めていった。

 

この頃に、ジャズピアニスト山下洋輔と出会い、一緒に行動するようになったことから山下洋輔から「師匠のような存在」と後年、言われるようになる。

 

また、山下洋輔に筒井康隆を引き合せたのも、赤塚不二夫を山下洋輔に引き合わせたのも、相倉さんである。

 

1960年代の破天荒な新宿の街には、いくつもの台風のような激しい動きがあった。それは演劇であったり、映画であったり、文学であったりしたが、その中の一つである、ジャズ系文化人の中心に「面白がることに天才的な」相倉さんがいたのである。

 

やがて1970年に自らの定義する「ジャズ」は死んだと語り、ジャズ評論活動を休止する。

 

その後、1972年にディープパープルの来日公演に刺激を受けたことからロック評論を始め、レコード大賞の制定委員も務めていた。

 

レコード大賞の制定委員について、本人は「制定委員が4~5人の時は、レコード会社の買収攻勢がひどかった。賞をもらうと、演歌歌手は地方公演のギャラが一ケタ変わるからね。でも、それだと不正だから、主宰者がそれに対抗するために、制定委員を50人ぐらいに増やしたんだ」と言っていた。それでも、ホテルにつくとイスのうえに桐の箱に入った松茸などが置いてあったという。

 

評論家として第一線を退いた後は、ライターを養成する学校の教師や、ビデオジョッキーとしての定期的な活動を行っていたが、2006年ごろからジャズ評論活動を再開。『相倉久人の超ジャズ論集成』など、ジャズの歴史を総括する本を執筆し、その分かりやすい語り口から再び人気を集めていた。

 

そして、2015年7月に83歳で亡くなっている。

 

講師としての相倉先生

亡くなったのが83歳ということは、僕が会ったのは相倉さんが60代半ばの頃だった。

 

赤と黒のチェックのシャツを着て、ジーンズを履いていた印象がある。

 

いつもニコニコしたおじいさんという感じで、楽しそうに笑顔で話をするのが印象的だった。

 

授業は講義というよりは、音楽史や芸能の裏話に加え、ビデオジョッキーとして集めた映像を使ったものが多かった。例えば、ウッドストックの映像や、タイマーズの放送禁止の映像なども流していた。

 

また、芸能の裏話として話していたエピソードの中で印象に残っているのは「ユーミンはあまり売れたくないと言っていた。売れると、ランキングが下がった時に売れなくなった、終わったと言われる。普通にそこそこ売れてればいい」という話だった。

 

これは今でも思い出す。ブログでいえば、バズを起こして一時的にアクセスが10万に増えても、次の日に10人しか来なかったしょうがなくて、平均を1日1万来るようにしたい、という考え方に近いと思う。

 

当時はけっこうランキング至上主義だったので、驚いたのを覚えている。そういう裏話をしてくれた。そんな話の中で、タモリが東京に来た日のエピソードもしていたので、僕がタモリ好きで、文章を書きたいと言ったら、授業の後に時間をとってくれたのだ。

 

向かいあって一対一で話す相倉さんは、いつも通りニコニコしていた。

 

タモリの反射神経に驚いた

――タモリに会うまでの経緯を改めて教えてください
「当時の僕らは「ジャックの豆の木」という歌舞伎町の店に集まって飲んでいたんだよね。そこはジャズピアニストの山下洋輔の仲間を中心に、筒井康隆、赤塚不二夫とか常連に文化人が沢山いたんだ」

 

ーーへ~。タモリはどういう経緯で来たんですか?
「あの頃、店ではいつもバカなことをやっていたんだけど、山下洋輔が九州公演から帰って来た時に『福岡にとんでもなく面白い奴がいる』と飲み屋で何回も話すから、ぜひ見たい、となってじゃあ、そいつを呼ぼう、旅費を集めようって誰かが言いだしたんだ。それで帽子を回して店の連中で金を出し合って、呼ばれてきたのがタモリだった」

 

――最初の印象はどうでした?
「第一印象は静かな感じだったね。それから少しずつタモリがモノモネとか始めるんだけど、みんな黙ってみていないんだよね。例えば、寺山修二のモノマネだったら、途中で筒井康隆が『そこで雨がふってきた!』という。そうするとタモリは『おぉ、雨じゃないか、僕は雨というのは・・・』と続ける。どんな難しいリクエストにも即興で答える。それも本当にその人が言いそうなことを言う。あれにはみんな驚いたね。とにかく笑いに対しての反射神経が抜群だった。もともとジャズはアドリブが多いから、それで鍛えたのかも知れないけどね。まぁとにかく笑ったよ」

 

ーーその後、タモリはどうなるんですか?
「赤塚不二夫の家に居候しながら『ジャックの豆の木』に来て、色々な芸をやっていたよ。天皇陛下の物まねでマージャンをやったり、赤塚不二夫と裸で店を移動したり、それから全裸でイグアナとかやっていたよ。無茶苦茶だったけど、とにかくみんな笑い転げていた」

 

――当時の思い出に残るエピソードはありますか?
「こんなに面白いやつがいるんだ、と少しずつ仲間内で知る人も増えていった。ある時、筒井康隆の出版パーティーで、彼がタモリにスピーチをさせたんだ。そしたら、バックで演奏しているやつらも、タモリを知っているから、途中から演奏を『君が代』に変えたんだ。すると、タモリは昭和天皇の物まねでスピーチを始めた。筒井康隆は最初は笑っていたけど、途中から右翼に知られたらまずい、と青くなって止めていたよ(笑)」

 

ーーそれからタモリはどうなったんですか?
「赤塚不二夫が俺がタモリを売り出すと言って、それで深夜番組とかラジオが決まって、そのうちにどんどんテレビに出るようになっていったよね」

 

ーー今もタモリと会うんですか?
「いまは会わない。でも、テレビ局とかで会ったら『おぅ』と挨拶する感じだよ。お互い忘れてはないからね」

 

ーーちなみにタモリはズラですか?
「本人に聞いたわけではなく、あくまで予想だけど、あれはカツラじゃなくて植毛。むかしタモリが船の事故で怪我をして頭に包帯を巻いた時に植えたね。あの時に記者会見をしたんだけど、間違いなく髪の毛が増えていた。あれは上手いタイミングだったな」

 

以上が当時のインタビューだ。この頃の「ジャックの豆の木」の話はけっこう語り尽くされた感はあるが、最初から現場にいた当事者の話は貴重だと思う。

 

目をつぶると今でも相倉さんの笑顔が浮かぶ。生徒がやりたいことを否定したり、止めたりせず、ニコニコしながら肯定してくれた。きっと昔からそうだったのだろう。

 

伝説のバーに相倉さんが座っていた。それは意外と大きな要因であって、何をやっても面白がってくれる、あの人の笑顔があったからこそ、もっと笑って欲しかったからこそ、タモリは密室芸をやり続けることが出来たんだと思う。そう考えると、今のタモリを作ったのは、赤塚不二夫であり、そして相倉さんも何パーセントかは入っていたんだと思う。

 

偉大なる評論家、相倉さんに教わったことは僕の財産である。心からご冥福をお祈りしたい。

 

 

ちなみに相倉さんの本では以下がオススメです。