きなこなん式

日本語ラップのECDの功績

プロレスラーのようながっちりとした体格の人が下北沢の踏切に立っていた。

しばらく見ていたら「あ、ECDだ」と気づいた。その後も何度か下北沢の踏切ですれ違い、ある日はたこ焼き屋さんの行列に並ぶ姿を見かけたこともある。15年ぐらい前の話だ。

そんなECDが亡くなったのは、2018年1月24日。ぼくが日本語ラップを聞き始めたのは、1996年だから22年間この人を追い続けたことになる。結局、ライブに行くことはなく、CDを聞き、小説を読み続けただけだった。

ぼくとECDの接点はそれぐらいだ。だが、彼から受けた影響という点では、かなり大きいと思う。特にその生き方、しっかりと怒り、NOと言う姿勢から学んだことは大きい。一方でECDという存在を失ったことでヒップホップは生き方からエンタメにより寄っているように思える。

「昔ヒップホップは心の叫びだったのに」「いまは金儲けの手段」という言葉がツイッターで流れてきた。

日本語ラップが心の叫びだった時代のECDの貢献について、しっかりと書き残さなくてはいけないと思う。彼がいなければ日本語ラップの歴史は変わっていた。それだけは断言できる。


ECDの三大功績

日本語ラップの歴史を掘っていくと、初期のキーマンは間違いなくECDだったことが分かる。

ECDがやったことは一貫している。自分が評価する人を周囲に宣伝し、それをきちんと形に残す。これをECDは繰り返していた。

ECDが行った3つの功績のうちの1つめは、ブッダブランドがN.Yで活動しているときに、彼らの音源を聞き、当時ECDが所属していたエイベックスの自分の担当者に彼らを紹介し、すぐに録音をしたこと。つまり、ブッダブランドと日本をつないだのは、ECDだった。

そして、そのブッダブランドのすごさを世間に紹介するためのイベントを企画し、さらにそれをドキュメンタリーのように撮って記録に残した。それが「さんぴんCAMP」だった。

また、名古屋の地で一人でラップスキルを磨いていたTwigyが東京で初めてラップを披露した夜にステージを降りてきた彼の腕を掴んで真っ先に褒めたのが、ECDだった。

それまでTwigyは、自分のラップのスキルがどの程度なのか把握できておらず、なんとなく「東京の奴らはもっとすごいだろう」と思っていたという。それがECDの評価で一変したのだ。Twigyという天才をヒップホップの世界に引っ張り込んだのだ。

ブッダブランドを世に出したこと、さんぴんCAMPを主催したこと、そしてTwigyを真っ先に評価して、ヒップホップの世界に引き込んだこと。この3つは、初期のヒップホップを語るうえで、本当に欠かせない。それが無かったら歴史が変わっていたぐらいの出来事だと思う。

余談だが、さんぴんCAMPでECDは出演者一人一人に直接連絡をしてブッキングをしていったという。その中で、Twigyだけが「この喧噪に飲まれたくない」という理由で出演を拒否し、一時的に日本を離れた。そんなTwigyの代わりに名古屋代表として出演したのが、当時18歳のTOKONA Xだった。


ラッパーECDをどう評価するのか?

僕が日本語ラップに出会った1996年頃。まだ日本語ラップのプレーヤーは数えるほどしかいなかった。それはブッダブランドなどが曲の最後に仲間の名前を呼ぶ際の人数でも把握することができる。20人前後。当時の中心人物の人数はそんなものだった。

そんな中で、ECDの立ち位置はずっと特殊だった。1996年、他のラッパーが20代半ばのころにECDはすでに30代中盤だった。自分が年齢を重ねて分かるが、30代半ばで20代半ばの人たちと一緒にステージに立って、活動を続けていくのはなかなか辛い。単純にノリが合わない。

あの頃はヒップホップのアルバムが出る機会も多くなかったので、外資系レコードショップを3店舗ぐらい回れば、たいていの新譜はカバーできた。そうして新しい人の曲を聴き続けていくと、本当にうまい。目に見えて日本語ラップが進化していく。

小学生のころ、足が速かった人が中学校に行ったら、そんなに足速くなかった、と気づくように、ラッパーが増えるにつれて、ECDのラップスキルには疑問符がつくようになった。

それは本人も自覚していた。自著の中で彼は「雷のステージを見ながら、自分が時代遅れだとはっきりと感じた。マイクを渡されたぼくはステージにダイブすることしかできなかった」と書いている。

ヒップホップには大きな波が来ていた。みんながその波に乗って進んで行っていた。だが実は途中で溺れて海の底に沈んでいった人もいる。沈みそうになりながらも必死に食らいついている。それがぼくが見えていた当時のECDだった。

だが、今なら分かる。それはダウンタウンの松本人志がお笑いの世界を塗り替えた時に、タモリがつまらない、と言われた時と同じだということを。

新しい価値基準が生まれると、そのモノサシに沿って人は判断する。フリースタイルが流行れば、フリースタイルが上手い人が評価され、そうでない人は評価されなくなるのと同じだ。

だが、そもそもラッパーは完璧である必要はなく、不完全性こそがラッパーの魅力だったりする。

顔が良い、ラップが上手い、フリースタイルもできる、特徴的な声をしている、トークも行ける、人柄が良い、それらを満たした人が評価されがちだが、本来ヒップホップはそんな音楽ではない。1個飛び抜けていればいいのだ。とんでもない個性。そこを見るべきなのだ。

その点で、ECDはメッセージ性と声の良さが飛びぬけていた。

特に声はすごかった。ある日、ニュースでデモの映像を流していた。僕は画面を見ていなかったが、一人だけ特別に良い声の人がいると思ってテレビを見ると、そこにECDがいた。

また、ECDの家庭内Youtube「石田マンション物語」のこちらの動画で、子どもがジュースが欲しいと駄々をこねる始める中で、ECDが「買わないよ、買わないっていった」というのだが、この声は本当に良い。ただの日常の場面なのに、不思議とラップに感じる。

1分15秒ぐらいのところ
https://youtu.be/wbonxSQ4FLM

時代を少し戻そう。ヒップホップが大きな波に乗る中で、ECDに決定的なことが起きた。そして、彼は深い海の底に沈んでしまう。

それは日本語ラップの歴史として考えても、大きな溝を生んだ出来事であり、その時、ECDが言ったことは、今もぼくの心に深く刻まれている。

ドラゴンアッシュに対して「盗人の美学すらない」と怒る

日本語ラップの歴史をざっくりというと、
1、東京を中心としたシーンの立ち上がり
2、トコナ、ブルーハーブなどの地方からの刺客
3、キックザカンクルーなどのラップ人気の裏で、MSC、SCARSなどの不穏な空気と降神などの登場による内面を語る時代
4、気づくと特殊な生い立ちや環境をスキャンダラスに語らないとラップってできないのかな、という流れができる
5、ラップがインフラのように当たり前になっていく時代

とかなり、おおざっぱだけど、そういう大きな流れがある。

いま振り返ると、1と2はまるでラジオのパーソナリティとリスナーのような関係だったと思う。

パーソナリティは話し手ではあるけど、実はリスナーも込みで番組は成立している。リスナーは内輪ネタ的にパーソナリティをいじり、「おまえらやめろよ~」と返すことで番組を盛り上げていく。それは壮大な共犯関係のようなものであり、内輪ネタであればあるほどその結束は強まっていく。

昔クラブのライブに行ったら、周りの人が順番にステージにあがってラップをして、「あれ、この人も出演者なんだ」と思っていたら、結局、僕以外は全員出演者だったことがあった。

当時はインターネットも無いので、ヒップホップの専門誌と、雑誌のヒップホップコーナー、You the Rockの不定期のラジオ「ナイトフライト」が情報源だった。

東京の人たちが最新の音楽を全国に届け、それを聞いた地方の人たちがもっとすごい曲を出して、東京の人たちが評価する。そうやって切磋琢磨しながら前に進んで行った。

だが、それは小さなコミュニティであり、Youtubeもツイッターも無い時代に、そんなやりとりなど知らない人は全く知らない閉じた世界だった。

それを大きく揺るがしたのが、ドラゴンアッシュの登場だった。

ドラゴンアッシュは、先ほど書いたヒップホップのコミュニティの外からやってきた存在だった。日本語ラップが積み上げてきた手法だけを取り入れて、彼らの音楽を作った。それは一つの手法であり、音楽を独占するなんておかしな話なのは、百も承知している。ただ、ヒップホップコミュニティの中の人にとって、これは面白くないことだった。

毎号ジャンプに掲載された「ドラゴンボール」を読んでいたら、それとそっくりな「ドラゴンキッズ」というアニメをマーベルが公開して、世界で大人気になったようなものだ。え?オリジナルはドラゴンボールなんだけど、ん?なんだ、これはジャンプの人は許可しているのか?となるのが自然だろう。

いまぼくの手元には、その当時の1999年7月号のヒップホップ専門誌「Blast」がある。その紙面では、ドラゴンアッシュの登場について、その是非をライター陣がそれぞれの視点で書いている。

「ドラゴンアッシュを称える文脈に不快感を覚える」「『ヒップホップか否か』以前に考えるべき問題がある」「『日本語ラップ=かっこいいもの』とのアピールは収穫」という文章が並ぶ。

総攻撃とは言わないが、否定的な感はぬぐえない。

だが、やがて彼らの曲は素晴らしいセールスを記録する。共演したジブラも一気に有名になる。お金の匂いが一気に強まったからか、ドラゴンアッシュを叩くラッパー、ライターはすぐにいなくなった。

後に、キングギドラは「公開処刑」という曲で手ひどくKJをディスるわけだが、最初からそんなの分かっていたのに、ちゃんと印税をもらってから、叩くというジブラ特有の「軽さ」が出ているなと思った(ジブラの「軽さ」がヒップホップにたくさんの恩恵をもたらしたことも事実だけど)。

そんな中で、一人激怒している人がいた。それがECDだった。

彼らは俺たちの文化を盗んだ。「盗人の美学」という言葉があるが、それすら無い、ともう紙面から湯気が出てるぐらい怒っていた。

怒るECD、ドラゴンアッシュの素晴らしいセールスに近づく人たち。距離を取るけど、黙る人たち。とりあえず、ECDの怒りに同調する人は見つからなかった。

ちなみに、このドラゴンアッシュを総攻撃した号では、ブルーハーブが初インタビューを受けている。

そして数年後に同じ雑誌の巻頭インタビューに登場した彼らは「東京どうした、弱くなったな、blast(専門誌の名前)もドラゴンアッシュの時はあんだけ攻撃していたのに、いまはどうした」と語っていたのが印象に残っている。

また、10年後ぐらいのダ―スレイダー主催ライブで、ジブラ特集をやった時にグレイトフルデイズをかけたらヘッズがだんまりをして、ダースが「おまえらの気持ちも分かるぜ!」と言ったのもよく覚えている。

結局、ドラゴンアッシュの曲は、大きな踏み絵だったと思う。意外にも多くの人は踏まずに避けて歩いた。たまたま踏まなかったふりをしながら、避けて通った。その踏み絵をガシガシに踏んで、なおかつ火を付けるぐらいの勢いだったのが、ECDだった。

ぼくは今もあの時のECDを思い出す。それはECDという人を象徴しているからだ。

全員が空気を読んで黙る中で、一人でも怒り続ける。声は届いていない。それでも声を出し続ける。

それは後に原発のデモに参加した時も「まぁECDはそうだよな」と思った理由の一つでもある。あの人はポーズとか、メリット、デメリットではなく、「ちゃんと怒る人」だったのだ。

ずいぶん前にECDと長いことイベントをやっていた人にインタビューをした時に「石田さんは優しかった、静かな人だった」と語っていた。普段は静かで優しくて、怒る時にちゃんと怒る人。それがぼくの中のECD像だ。

やがてアルバムでラップをしなくなってきたあたりから、彼はアル中になり、エイベックスを出て、インディーズに活動の場を移すことになる。

そして小説を書く

そのあともずっとECDのことは気になっていた。インターネットでもECDは何かで発信していたと思う。トコナが亡くなった時も最初の情報はネットのECDの発言だった。

ユウザ・ロックの掲示板「友情BBS」なのか、2ちゃんのHiPHOP板なのか。記憶が曖昧だけど、ECDの動向は把握していて、アルバムが出れば買ったりしていた。

特にお気に入りだった曲は「Rock in my Pocket」だった。「ポッケにロック/ロック石ころ/これだけありゃなんでもできる」というフックは、ECDの生き方そのものだと思った。

梶井基次郎の檸檬ではないが、ポケットに小さな石を持って「これだけあればなんでもできる」と鼻息を荒くするECD。最高にかっこいいと思った。

とはいえ、そんなに売れているわけでもなく、経済状況はどうなっているんだろうと思った頃に「働けECD」というブログを発見した。

そのブログはすごく不思議なブログで、日記ではなく、ずっと家計簿が載っていた。ラッパーの家計簿。唯一無二の記録。書いていたのは、ECDの結婚相手の植本一子さんだった。

ECDは、ラッパーとしての収入は数万円で、舞台の仕事で稼いでいた。ただ、それも月16万円。家賃が11万円。子供もいる。すごい綱渡り。ECDは毎日レシートを一子さんに渡し、彼女がそれを文章にする。またコーラを飲んでる、と言われ、またレコードを買ってる、と奥さんに愚痴られる。めちゃめちゃ面白い。

そんなECDは、小説を書いていた。文学賞の賞金50万円目当てだったと語っているが、家計簿を見ると納得。その小説は「en-TAX」という雑誌に掲載されていて、初めてECDの小説が掲載された時には、その文才に驚いてしまった。

内容は自伝に近く、自分の生い立ちから現在までを書いていたのだが、すごいドラマチックなわけでもなく、淡々と書きながら、冷静に丁寧に言葉を紡いでいく。何か賞を取るような、そういう作品ではなかったと思う。でも、ECDは小説を何冊も書きながら、まるで森の中に立派な秘密基地を作るように、しっかりと自分の世界を築いていった。

ECDとは何だったのか?

ECDがさんぴんCAMPで「J ラップは死んだ 俺が殺した」と叫んだ1996年7月7日から26年の歳月が流れた。

過去を俯瞰してみた時に、ECDとはなんだったのだろうかと考える。そもそもそれがこの文章を書くきっかけだ。

ラップとは何か?日本でヒップホップをやる意味はなんなのか?

ECDは近田春夫という、日本語ラップの最初期の人物に師事していた人だから、それを考えないわけにはいかなかったと思う。

そして、その前に山崎晴美という人と出会っていることも大きいと思う。

この文章を書くために、山崎晴美のことも調べた(彼が編集していた伝説の雑誌「Jam」「Heven」の迷宮に迷いこんだりもした)。

山崎晴美は、ステージで痙攣してぶっ倒れるなどの過激なパフォーマンスをした人で、音楽的には当時の最先端にいた人だった。

山崎晴美はパンクの人であり、パンクの思想は、反権威主義、不服従、そしてこの世界をぶっ壊すことが目的だった。

ECDの生き方を見ると、どちらかというとパンクのDNAの方が強く、パンクの思想で、ラップをしていたんだと思う。

そして、ECDを語るうえで欠かせないのは、やはり「ロンリーガール」だろう。

この曲が生まれたころ、僕は都内の男子校に通っていた。中学卒業以来、女子と接する機会が無いまま月日が流れ、ある時「トゥナイト」でブルセラショップは見た時は震えたのを覚えている。

いま同級生の女子はこんなことになっているのかと。当時は渋谷区に住んでいたが、センター街は怖くて近づけず、映像ではルーズソックスを履いた女子高生が群れで歩いていた。

そんな時代に「ロンリーガール」は生まれた。あの頃、女子高生は特別な存在であり、彼女たちのシンボルである安室奈美恵は天下を取り、何か事件が起こるとワイドショーは女子高生に意見を聞いた。

そんな時代に、「いや、あなたたち飼いならされてるだけだ 立ち上がれ」とECDはラップしたのだ。良いルポルタージュは数年後に読んだ時に古いと感じれば感じるほど、今を捉えているという。それと同じように今聞くとなんとも思わないが、当時はすごく特別だった。ミスチルが「君が好き~」と言っている時に、ECDはセンター街のことをラップしたのだ。ラップは今を語るのだ、ということが明確になった瞬間だった。

そう考えると、ECDは日本語ラップ初期の道しるべのような存在だったのだと思う。

そんな彼の曲の中でも「トニモンタナ」は特別な一曲だと思う。

曲名の「トニモンタナ」とは、ラッパーのバイブルと言われている映画「スカーフェイス」の主人公。薬を売って、金、車、女を手に入れる。そんな映画だ。トニモンタナ=ラッパーの憧れと言っていい。

そしてECDは曲の中で「トニモンタナ/トニモンタナ/トニモンタナにはなれなかったんだ」とラップし、「ヒップホップ/ごめん落ちこぼれ」と吐露する。

そして、彼はその曲の中で「自分で作って売ってる音楽」とラップする。

日本語ラップの道しるべだった彼が、最後には自分で音楽を作って売っていた。それはもしかしたら、ラッパーの最終地点かもしれない。芸能人が次々と事務所を辞めるように、ラッパーもやがて音楽事務所を辞め、自分で音楽を売り出すだろう。

そうなった時、人々は気づくと思う。ECDはインディーズではなく、パンクの精神の一つとしてDIYで音楽を作って売っていたんだと。

そう、彼は最後までヒップホップの道しるべだったのだ。

ECDがつないだもの

ECDは、残念ながら2018年にがんで亡くなってしまった。

だが、彼が生み出したものを受け取って紡いだ人物がいる。

それは結婚相手だった植本一子さんとラッパーのPUNPEEだと思う。

PUNPEEとECDの直接の関係は、あまり詳しくないが、映像としては反原発関係のライブでラップするECDの後ろでDJをする若き日のPUNPEEが残っているので、面識はあったのだと思う。

PUNPEEとECDについて、強く印象に残っているのは2つある。

1つは、PUNPEEがECDの闘病中にテレビに出た際に、さんぴんCAMPの時のECDと同じジャージを着て、番組のエンディングではジャージの前を開けたところ、「ECD IN THE PLACE TO BE」と書かれていたこと。つまり、テレビを通して、闘病するECDを応援したのだ。

2つめは、彼の2018年のワンマンライブでECDの盟友である、イルシットツボイさんと共演し、ロンリーガールを作った時の機材を使って演奏した後で、ロンリーガールの歌詞を現在の若い女性に置き換えてラップしたこと。この曲は未発表だが、その歌詞は女性に対して「立ち上がれ」という思想を受け継いだ歌詞であり、本当に素晴らしかった。

また、アルバムのミキシングをツボイさんに依頼したのも、PUNPEEなりにECDのバトンを受け取ったように感じてしまった。

もう一人の植本一子さんもすごいことになっている。

ECDの家計簿ブログを書いていた時から、妙に読ませるものがある人だなと思っていたが、その後、彼女は『かなわない』という日記文学の金字塔を生み出す。

ECDも包み隠さず書く人だったが、一子さんはもっと包み隠さず書く。喜怒哀楽、愛情も怒りも全部書く。自分がどう思われるかなんて関係なく、とにかく書く。

小説家だって、文学者だって、どこかで作家としての影武者みたいなものを作って、それを表に見せながら、作品を書いている。

だが、彼女はもう「そのまま」なのだ。作家としての親鳥であるECDがそうやっていたから、それを見ていた自分もそうやったら、なんかすごいの生まれた、ということなのだろうか。

手法はECDと同じだが、ECDが本質的に静かだからか、淡々としている一方で、彼女はずっと刺激的だ。その内容に共感したり、反発したりしながら読む人の感情を揺さぶることができる数少ない作家だ。

ツイッターで一番良いのは、賛否でいえば、否が3割ぐらいあるのがベストらしいが、彼女の作品はまさにそんな感じ。強めの否の人もいるだろうが、熱烈なファンも生み出すほど、すごいエネルギーをもっている。

ぼくはすっかりファンになり、気づけば彼女の本はすべて手に取り、個人出版した本も入手するほどハマっている。間違えなくECDのバトンを手渡しで受けとった人だと思う。

また、彼女はもともと写真家であり、ECDの良い表情の写真をたくさん残している。ぼくはその写真が好きだった。

ある時、表参道で彼女の写真展があったので足を運んだが、ECDの写真が一枚もなかった。ちょうど一子さんとぼくの二人しかいなかったので、ECDの写真は無いんですか?と聞こうと思ったが、彼女の中でいまは無しだから、写真が無いんだろうな、と察して何も言わなかった(それぐらい嫌いな時期がはっきりした人)

ということで、自分の中で植本一子さんとPUNPEEがECDのバトンを受け取った人だと思っている。

人が死ぬのは2回。その人が死んだ時と、その人を知っている人が全員死んだ時。そういう意味では、ECDは亡くなったが、一子さんとPUNPEEが活動をしている限り、僕らはECDの魂を感じることができるのかもしれない。

彼が亡くなって、5年の歳月が流れた。でも、彼の功績を、彼の足跡を、そして残してくれた音楽や文章を風化させてはいけないと思う。特に文章はもっともっと評価されてほしいと思う。

彼が闘病中に作れたTシャツには「ECD IN THE PLACE TO BE」の文字が書かれていた。ECDはここにいる。どこにいるのか? それは彼の残した音楽、小説、そして生き方に影響を受けたすべての人たちの中にいるんだと思う。

「これだけありゃなんでもできる」。そう僕たちは、小さな石ころひとつで、なんでもできるんだ。

https://youtu.be/sBRuNCt_Wbw