きなこなん式

なぜ『劇場』は『火花』より難しい小説になったのか?

『火花』で芥川賞を受賞した、又吉直樹の新作『劇場』を読んだ。

面白かった。歴史に残る傑作だと思った。

でも、ツイッターを見ると「難しい」という声が多かった。

又吉はNHKで『劇場』を作る過程をドキュメンタリーで紹介している。

その中で「『火花』を読んだ人から分かりづらい、難しいと言われた。だから、今回はわかりやすくしたと語っていた。

それなのに、ツイッターでは「難しい」という反応が起きている。なぜこんなギャップが生まれているのだろうか。

そのことについての考察を書いてみようと思う。

又吉の考えた「分かりづらい」

『劇場』について本人がインタビューで語っていたことは以下2点である。

・もともとは『火花』より『劇場』を先に書いていた。だが、『劇場』は書き終わらず『火花』を先に発表した。
・『劇場』は、火花を読んで分からない、といった人にも分かるものにしたい

つまり、又吉の本当の処女作は「劇場」のはずだった。

そして「劇場」は火花の難しいという指摘を受けて、より分かりやすく仕上げた。

ここで肝になるのが、以下2点になる。
1、なぜ『劇場』を先に書けなかったのか?
2、なぜ結果として難しいものになったのか?

1は読めば分かる。テクニックというよりも、吐き出すテーマが『火花』より難しかったからだと思う。火花は仕事、劇場は恋愛である。より心情を吐き出すのは恋愛の方であり、だからこそ書くのがきつかったのだろう。

そして仕事の話と、恋人の話。どちらの話がみんなに話しやすいかといえば、仕事の方だろう。

恋人との話はいくら小説とはいえ、しんどい内容が多い。

問題は2である。本人は分かりやすい、でも、みんなは難しいという。

そのギャップの原因は「分かりやすい」の定義が又吉と読者で違う点にある。

又吉にとって文学の定義とは「恥ずかしいことを、自意識が強い人が自我をむき出しでやり、それでいて美しい物語」であり、又吉は「(文学を)分かりやすく」したのではないだろうか。

なぜそう思ったのか。それは本作の中で一番きついシーンである、執拗なまでの嫉妬から来るメールの応酬の場面で分かる。もう見ていられないほど赤裸々な気持ちの吐露。

人間の感情の中でも一番恥ずかしいのは、劣等感から来る嫉妬だと思う。それをしつこく描く。うわ~とさせておいて、美し過ぎるラストシーン。その展開はベタと言えばベタかもしれない。がっつり泣かせに来ている。でも、やっぱり美しい。

まさに文学の教科書のような内容だと思った。

だから又吉は「分かりやすく、これが文学という作品を書いた」という意味で「分かるものを」と言ったのではないだろうか。

これを読むと以前は「名作だ」と思った『火花』は、文学の文体で書かれたエンタメ小説に過ぎず、『劇場』こそ又吉の「文学」だと感じた。

そう、これこそが彼が処女作なのだ。

難しいと思った人に改めて伝えたいのは、これが文学なんだ、どうでしょう?ということである。

文学とはストーリーより、もっとむき出しの自我を出して、あなたの魂を揺さぶるものなんだと、いうこと。それを又吉は古典的な形式に沿って提示したのだ。

読み終わって思い出した話

この話の主人公は、途中からどう考えても又吉本人が浮かぶ。

演劇の演出家なんてやってないし、小説の主人公と作家は違うと分かっていてもそうなってしまう。それが文学ってやつだ。

そして、思い出したのが『火花』が売れた後に、又吉が昔の彼女に「あの時はお世話になりました、今からでもなにかお返しさせてください」と語ったという話だ。

ネットニュースなので、真実は分からない。だが、『劇場』を読むと、その話は後日談としてふさわしいように思う。

とにかく僕は『劇場』は名作だと思った。火花よりずっと。50年残ると思った。

こんなひどい奴の話読むのつらいという人もいるだろう。でも、それを浄化するラストシーンはやっぱり美しいと思う。涙が止まらない。

又吉の火花が売れた後に、千鳥の大悟がアメトークで又吉に「これは文学か?」と色々なものを聞くシーンがあった。

ああいう「これは文学か?」って文学の定義が曖昧な人にぜひ読んで欲しい。

これが文学だ。これこそが文学だと思う。オススメの一冊です。