きなこなん式

あの頃「フリーター」という言葉はかっこ良かった~就職氷河期時代の思い出

安倍政権が就職氷河期世代を正社員にしようと取り組んでいる。

就職氷河期世代とは、35~45歳ぐらいを指すそうだ。現在、40歳の僕はそのど真ん中ということになる。正社員になれなかった彼らは、やがて生活保護になる。その前に就職してもらって税金を払ってもらおうというのが意図らしい。

そんなニュースを見ながら、当時のことを思い出していた。僕らの世代が大学を卒業したのは、ちょうど2000年頃。日韓W杯が始まる前のちょっと浮ついた空気の頃だ。

不景気という言葉はあったが、現在のような諦めムードはなく、社会全体が茶髪にして少しチャラチャラしていた。

そして思い出すのは「フリーター」という言葉が「かっこ良かった」という、今となっては信じられない過去の記憶だ。

そう、あの頃、フリーターはサラリーマンというレールには乗らずに自分の人生を生きている、自由な存在だったのだ。

バイトの方が稼げた時代

いまとなっては理由は分からないが、当時はバイトの地位も今より高かった。やりがい搾取や、バイトリーダー(笑)みたいバイトに全力の人を笑う空気はなく、みんなバイトに全力投球して、下手な正社員よりも稼いでいた。

どこのバイト先にも、上手いこと力が抜けたベテランの人がいて「おいおい、最初から飛ばすと午後もたないぞ」みたいな感じで、みんなを癒してくれた。

彼らは学生時代にバイトをする、と決めている人たちではなく、「フリーター」という生き方を選んだ人たちだった。

会社員なんて、上司にペコペコしてめんどくさいのは嫌だ、そういう枠組みの外で俺はきっちり働いて稼いで、好きなように暮らすんだ、という自分の生き方を旗に書いて掲げているようなそんなかっこいい存在だった。

それは例えば、朝会社に行くサラリーマンを横目に、夜勤明けで帰ってグーグー寝たり、バーで働いて色恋沙汰を経験したりという、会社員、サラリーマン街道というぶっとい道とは違う、路地裏の踊り場のようなところで楽しそうに生きている人だった。

僕はそんな勇気は無かった。編集の仕事がしたかったのだが、雑誌が廃刊になったら職を失う、不安定な仕事だろうと思って、とりあえず失職した時のために免許を取って、ダスキンで1年働いて清掃のスキルを身に着け、喫茶店で1年働いて水商売のスキルも身に着けたうえで、業界に入った。あくまで未来に向けてスキルを得る手段としてのバイトだった。

でも、そこには「フリーター」の方々がたくさんいた。そして彼らは僕が辞めた後もずっといた。

ある人は宗教的な理由で、平日に布教活動があるため就職ができなかったり、ある人は自由を求めてずっとTSUTAYAで働いていた。きっと今もそこにいるんだと思う。もう45~50ぐらいだろう。

いま思うと、当時のフリーターという言葉の魅力と、現在のブロガーやノマドワーカーという言葉から想像するイメージは少し似ている。

いずれもサラリーマンからの解放を謳っている点が似ているのだろう。

ここではないどこかへ

ブロガーやノマドワーカーは、いま稼げても5年後にはどうなるか分からない。スキルがあれば生きていけるが、無ければどこかで働くしかない。そうなった時にずっと働いていた人より優遇されるとは思えない。きっと、使えないおっさんというポジションから始まるのだろう。それは怖い。

ブログでいっぱい稼いで、仕事を辞めてのんびり過ごす。

フリーターとして生きて、会社に縛られずに生きていく。

時代が変わっても、彼らが発するメッセージは同じだ。会社員なんて息苦しいのは辞めてしまえ、である。

その言葉は魅惑的であり、強い言葉として耳に残る。

でも、フリーターの末路が生活保護だとしたら、ブロガーの末路もそうなのだろうか。

エスカレーターに乗っている時、僕らは階段を登る人を見ながら「健康のためには歩いた方がいいんだな、歩ている人は偉いな」と思い、階段を登っている時は「エスカレーターにすればよかった、楽そうだな」と思う。

2つの人生を生きれない以上、いつも誰かを羨みながら、自分の人生を歩むしかないのだ。

あの頃見たフリーターの人たちはかっこ良かった。彼らが今さら再就職するとは思えない。

今さらさかのぼって「かわいそうな人たち」認定しないで欲しいと思う。

少なくとも僕が知るフリーターは、みんなカッコよかったし、自分の生き方に誇りを持っていた。その生き方を否定するのだけは止めて欲しい。

サラリーマンだけが正しい生き方ではない。別の道を選んだ人が誇りをもって生きれる世の中を作る。そのための法整備の方がずっと大事だと思う。