きなこなん式

4歳児に空手を習わせて良かったと思う3つの変化

息子に空手を習わせて1年が経過した。

初めはどうなるかな、と思ってみていたが、結果としては「習わせて良かった」と思ったことがいくつかあるので、子どもの習い事の参考までにそれをまとめてみたいと思う。

習わせて身に着いた3つの力

子どもが空手を習ってできるようになったことに以下の3つがある。

1、正しい攻撃と防御
2、真似する力
3、礼儀作法や挨拶

一つひとつ開設しようと思う。

1、正しい攻撃と防御が身に着く

空手といっても殴りあうわけではない、まずは正拳突きと、蹴りの型を学ぶ。足の曲げ方、手の動きを細かく何度も指導される。

それを見ていて思ったのは「自分は正しいパンチの仕方を習ったことが無い」という事実だった。

正しい殴り方を知っているか、知らないか、ボクは知らない。息子は知っている。これで筋力がついて大人になったら、本当の「おやじ狩り」に遭うのでは。。。というのは冗談だが、殴り方と同時に学ぶのが防御の動きである。上から下から、色々な攻撃に対する防御法を学ぶ。これは使えると思う。

格闘技というと、攻撃ばかりをイメージしがちだが、正しい防御法を学ぶ、というのも重要な要素だと知った。

2、真似する力

他の人と同じ動作をする。ラジオ体操ではないが、これはスポーツの基本だと思うが、息子はなぜだか苦手だった。

人の動きを見ていない、真似ができない。コーチがなんども「上手い人のを見て」「何が違うか見るんだ」と言い続ける。

この時に便利なのが、空手の場合は帯の色で「上手い人」が明確に分かる点にある。つまり、誰の真似をすべきかがはっきりしているのだ。

これによって上達の近道である「上手い人の真似をする習慣」が身に着いた。これは地味だけど、色々なところで応用できる力だと思う。

3、礼儀作法や挨拶

空手教室では、最初と最後に必ず挨拶をする。

特にいいなと思うが見学に来ている保護者への礼。正座、お辞儀、黙とう、その所作も細かく注意してくれる。もちろん親が教えればよいのだが、そういうところを学べるのはありがたい。

また、返事についてコーチと子どものやりとりで素晴らしいなと思ったが、以下のやりとりだ。

コーチ「君たちの返事は、はあいと3文字だ。返事は『はい』の2文字、わかった?」

子ども「はあい」

コーチ「ほら、3文字になっている、2文字で」

というやりとりがあった。

空手だと「気合を入れろ」などの抽象的な言葉をいうイメージがあるが、実際はロジカルに教えてくれる。それによって「気付き」「改善」という流れができ、目に見えてわが子が向上していくのである。

また、最後の挨拶の中で「保護者の方々に礼」と正座して礼をしてくれるのも地味に嬉しい。

親という立場になって気づいたが、習い事は無料ではない。「月謝と親の時間」を使っているのだ。はっきり言わないけど、そこに礼という形で伝えてくれるのは、なんだか「そうそう、保護者に礼は大事だ」と毎回思う。

帯という仕組みの上手さ

今では毎週息子の空手を見に行っているが、かつては空手のイメージがぼんやりしていて、「黒帯は強い」「茶帯はまぁまぁ強い」と思っていた。要するに黒に近いほど強いのかなと。

でも、息子が2回試験を受けて合格する頃、これはすごい良い仕組みだなと思った。

「上手くなった」「強くなった」「頑張った」

そんな言葉だけで人は満足できない。「褒められてるけど、上手くなっているのかな」「自分ってどうなんだろう?強いのかな」というところを半年に一度のテストという形でステップアップさせ、帯の色が変わることで目に見えて自分が「ランクアップ」しているのがわかる。

これが子供のやる気の継続にすごく役立つのだ。黒帯の先の色が変わらないのは、きっと「ここまで続ければ後は自分で精進する」ということなのだろう。

いじめの現場に親はいない

そもそも空手を習わせたのは「いじめ対策」だった。親は誰だって、自分の子どもの幸福を願う。不幸になる姿を考えると頭がおかしくなる。

そして、自分の経験則では「いじめられた経験は後に残る」と思う。それは卑屈さ、話し方が気になる、など様々なところに出てくる。

いじめから我が子を守るにはどうしたらいいか。ボクが出した結論は「格闘技を習う」だった。

それは殴るためではない。自分は強いという「自信」を得るためだ。また、もしも誰かが手を出してきても、防御法を習っているので防ぐことができる。

いじめの現場に親はいない。子供が自分で身を守らなくてはいけないのだ。特にうちの子はやや気が弱いところがあったので、ちょうど良かったと思う。

「続くかな」と不安な気持ちで始めた空手だったが、いまでは4歳から始めて良かったと思っている。

上記は全て個人の意見だが、もしも、空手ってどうなんだろう?と思っている人がいて、その人にとって何か参考になれば幸いである。