きなこなん式

騎士団長殺しの性描写と宮崎駿の描くパンチラ問題

騎士団長殺しを読み終わった。

発売直後は冷静な評価ができないだろう、と時をあけて読んだけど、

・嫁に捨てられる
・穴に入る、穴から抜ける
・騎士団長(イデア)がペラペラしゃべり物語を前に進める
・洞窟のようなところを通り抜ける

など「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」と「ねじまき鳥クロニクル」と「海辺のカフカ」を混ぜたような内容になっていた。

とはいえ、物語の推進力はかなりの物でとにかく読む手が止まらない、続きが読みたい、と思わせるパワーはここ数作には無かったものだった。

そんな同作品のもうひとつの特徴といえば、けっこう露骨な性描写だろう。

これは村上春樹作品の中ではほぼ毎回登場するものなんだけど、この作品ではちょっと過剰な気がした。

その結果かどうか知らないが、香港では本作が18禁になって話題になっていた。

なぜ彼はこんなに性描写を入れたのだろうか。

宮崎駿のパンチラ問題

この事を考えるうえで、思い出されるのが宮崎駿のパンチラ問題である。

よく覚えているのは小学校低学年の時に「風の谷のナウシカ」を映画館で見た時の記憶だ。

いとこのお兄ちゃん2人(中学生)と、父親と僕の4人で見に行ったのだが、帰ってきた時に「ナウシカのパンツは見えていたのか?」をずっと話していたのを覚えている。

ナウシカ以外にも宮崎駿はけっこうパンチラを多用している。

それは純粋に「正しいカメラアングルと動きを再現した結果」として、小さい女の子のパンツが見えているのか、それとも何か意図があるのか。

本人が言及していないので正解は分からないが、確かに宮崎作品にパンチラの頻度が多いことは確かである。

村上春樹と比喩が多い問題

村上春樹といえば、比喩が多いことで知られている。

なぜあんなにも比喩が多いのか。その理由について本人は自らの著作で「飽きさせないため」だと説明している。

ということは、性描写も同じように「飽きさせないため」のアクセントとしての役割なのだろうか。

だとすると、ちょっとテクニックとしては下等な気がしてしまう。

ヌードは必要か問題

その結論を出す前にもう一つ考えてみたいテーマがある。

僕の好きなドキュメンタリー映像監督の松江哲明さんが一時期、日本の映画におけるヌードについてツイッターで問題提起をしていた。

その内容は、日本の映画は脱ぐ方が自然なシーンでも脱がない、という話だった。

そこには女優の意思や事務所の意向などもあるだろう。

だが、作品の流れで見た場合、「ここは脱ぐべき」という流れは確かに存在する。でも、日本では脱がないで進むことが多い。

その理由として、日本の場合、女優が脱ぐと「脱いだ!」ってスポーツ新聞などが、中学生みたいな騒ぎ方をしてしまうので、それが作品にとってノイズになってしまう可能性もあって、脱がなかったりする。

その辺は「山田孝之のカンヌ映画祭」で、長澤まさみに脱いで欲しいと、山田が依頼したときに長澤まさみが脱ぐのは構わないけど、私が脱ぐと作品以外のところで騒がれるので嫌だ、と言って断ったことが象徴的だろう。

でも、本来、作品の中で必要であれば脱ぐべきだ、という主張はすごくもっともだと思う。

なぜ性描写が登場するのか

上記の話を踏まえて考えると、なぜ村上春樹が「ノルウェイの森ってポルノじゃね?」と言われるぐらい、性描写をするのか、はそこを省く、という線引き自体がおかしい、ということなんじゃないだろうか。

誰かと会話する、食事をする、誰かと寝る、それがその人物にとって日常であり、その人を形作っている一部なのだ。

昼はエリートサラリーマン、夜はSM嬢にムチで叩かれるのが大好きな人がいたとしたら、昼だけを描ければ、その人物の一部だけを見せていることになる。むしろ夜の姿を伝えることで、その人物をよりリアルに描くことができるのだ。

さて、ここで思い出させるのが、宮崎駿のパンチラ問題である。あれは読者サービスやテクニックなのだろうか。

それについて、ジブリの鈴木さんは他の作家との人物の動きの描き方の比較の中で「宮さんだったら、さっと座ってへたり込んでね、パンツ見えちゃうんですよ。宮さんのほうがカラッとしている」と語っている。

やはり、絵として自然であれば入れる。

そう考えると、村上春樹の作品に性描写が多いので、そこを描くことでよりその人物を描けるときにはサラリと書くのだと思う。必然性がある時というか。

例えば、一番露骨な「ノルウェイの森」における性描写のシーンは無くてはならないものだった。あれは好きだった人とは、やれなかったのに、好きでもない人(主人公)とやれてしまった、ということが女性が自殺へと向かう大きな理由になっているから、その点を考えると、あの描写は必要不可欠なものだったのだ。

そう考えると、やはり描く必然性があり、その方が自然であれば「えい」と書いてしまえる、村上春樹、宮崎駿の2人はやはりすごいと思う。

特に細かい性描写だと、どうしても家族や親せきの目とか、「この人普段こういう感じなんだ」とか思われるリスクがあり、僕なら書けない。

つまり、結論としては、彼らは作品をどう描くのか、何を描くべきなのか、どうすれば表現できるのかという点に集中した結果であり、自分がどう思われるのか、なんて超越して、一生懸命書いたらそういうものが出てきちゃった、ということなんだと思う。

すごい夢中で踊ってたら、気づいたら全裸だったみたいな。いや、自分で服脱いだじゃん、というツッコミはあるのかもしれないけど、当人は夢中だったから気付いていない。え?いつ脱いだの?という世界かもしれない。

ということで、下世話な考えは捨てて、純粋に楽しんでみましょう。騎士団長殺しは普通に面白いと思うので。