戦争中に「児玉機関」のトップとして活動し、戦争が終わった時に持っていた莫大な財産をもとに戦後の裏社会に君臨した男、児玉誉士夫(こだまよしお)。
田中角栄とともにロッキード事件で起訴された彼は、一体どんな人物なのだろうか。
村上春樹の『羊をめぐる冒険』で登場する「先生」は児玉がモデルだと言われている。
そのシーンとは、ある日、黒服の男がやってきて名刺を差し出す。
「この名前を知っていますね?」
「はい、知っています」
「この先生があなたが広告に使った写真の出所を知りたいと言っている」
そう言うと男はその名刺を目の前で燃やす。そして、主人公はこの先生のために長い冒険に出る。
名前を見せるだけで、業界にいる人を従わせてしまう存在、それが児玉だった。
当時の雰囲気について、評論家の佐高信は
「私がものを書き始めた’70年代には、児玉はまだ存命中。彼の話は本当にタブーで、児玉の「児」の字でも書こうものなら、消されるんじゃないかという恐怖感がありました」
と語っている。
実際、僕が15年ほど前に児玉について調べようと彼の著書を図書館で借りようとしたら、住所、氏名を書かされて、職員が別の部屋(閉架)から本を持ってきたことがあった。
長く図書館を使っているが、住所と名前まで書かされたのは初めてだった。これはひょっとしたら、「危険図書」みたいになっており、これを借りたことで公安からマークされたかもしれない。そんなことを思った覚えがある。
それほど恐れられている児玉誉士夫の生涯と実像について書いてみたいと思う。
動画サイトで見る児玉が話す姿
裏社会に君臨というと、どうも怖そうなイメージがつきまとうが、実際にどんな話し方をする人だったのか。
下記のYoutubeにロッキード事件当時の児玉邸の周辺の様子とともに彼が話している貴重な映像(1.17秒ごろ)が残されている。
これを見ると、見た目は田舎のおじいちゃん、という感じで、特に流暢に話すわけでも、なにか宗教の教祖のような特別な話し方なわけでもない。
事実、彼の息子は父親について「いつも庭の草取りをしており、何時間でも無心に釣り糸をたれる人だった」と回想している。
そして、その印象は、大人しくて、無口で、素朴な普通の人だったそうだ。
子どもが見る親なんて、そんなものかもしれないが、私自身も動画を見ながら、なぜこの人が戦後最大のフィクサーと呼ばれたのだろうか、不思議でならなかった。
それをひも解くカギが戦時中の児玉機関、そしてその前史である、チンピラ右翼時代に遡る。
3つの時期に分かれる児玉の生涯
児玉誉士夫の生涯をざっくり分けると、以下の3つとなる。
1、チンピラ右翼時代
2、戦中の児玉機関時代
3、戦後のフィクサー時代
児玉が大きく変化したのは、3の戦後になってからである。
だが、その一方で「チンピラ右翼」と評された時期に、軍から機関長に抜擢されたのは、単に運が良かったというより、やはりその胆力、問題解決能力が優れていたからだろう。
これまで発売されている本では、児玉について極端に過大評価したり、逆に矮小化するケースが多いが、ここでは事実を中心に記述することで、その実像に光が当てられればと思う。
韓国で少年時代を過ごす
児玉誉士夫が生まれたのは、1911(明治44)年2月18日。生まれたのは福島県の安達郡本宮町(現本宮市)だった。
児玉は自著で自らの家系を上杉家の家臣であった山田家にあり、父の代になって二本松藩の御典医である児玉家の養子となったため、児玉姓になったと語っているが、これは眉つばだろう。
実際は、父親と二人で福島で極貧生活を送っていた、というのが実情だったようだ。
母は7歳で亡くなっており、8歳の時には朝鮮に住む親戚の家に預けられた。
その後、朝鮮に長く住んでいたが、15歳の時に日本に戻り、向島の鉄工所で働き始めた。
一日働いてもそば一杯が食えないほどの暮らしだったという。
少し当時の世相について触れてみよう。
10代、20代の児玉の細かい動きは、情報があいまいであるが、例えば児玉が20歳となった1931年の出来事で見れば、満州事変が起き、右翼の大物である大川周明らによるクーデター計画が発覚(通称「10月事件」)している。
その一方で、東北、北海道では冷害による凶作が続き、娘の身売りが急増した。これは福島出身の児玉にとっても他人事ではなかっただろう。
新聞には占領、爆破などの文字が躍る、硝煙の臭いがするような世相の中で、見捨てられる東北の窮状。社会の底辺に生きていた児玉だが、このまま一生を終えるのではなく「俺も何かしたい!」と血がたぎってきた。そこで彼がとった行動が天皇直訴事件だった。
頭山満のもとで右翼活動を行う
何かしたい、と考えた児玉は、最初は社会主義に興味を持ったが、その後、玄洋社(げんようしゃ)の総帥でもある頭山満(とうやま みつる)の元で動くようになった。
福岡藩士を中心に結成された玄洋社は「右翼の源流」と呼ばれる組織であって、長州の若者が松下村塾の吉田松陰のもとで学んで、その後革命をしたように、玄洋社にいたメンバーがその後の日本の右翼活動の中心となっていった伝説的な団体である。
特に頭山満は、政界にも幅広い人脈をもつ右翼の巨頭と呼ばれた人物だった。
彼の影響力を表すエピソードのひとつに「宮中某重大事件」が挙げられる。
当時、昭和天皇の妃に島津家の久邇宮長子が内定した。それに対して維新の功労者であり、絶大な権力をもっていた元老の山県有朋が島津家には色盲の系統があると反対したのだ。これは薩摩と長州の派閥争いであり、山県としては、政敵である島津家が天皇家に入ることについて、無理やり理由を付けて反対していただけなのである。それを知った頭山はさまざまな手段で圧力をかけ、山県の意見をひっこめさせたという。
頭山満と児玉というと、密接な関係を想像してしますが、当時彼の元には多くの若者が集まってきており、児玉はあくまでそのうちの一人であった。
頭山の元にいた児玉は、その後、1929年に頭山が顧問をつとめる右翼団体「建国会」に加わり、当時の左翼政党である労農党結成の反対を叫んで赤坂見付で天皇に直訴し、6ヶ月の刑に処せられている。直訴は失敗に終わったが、この出来事によって、右翼の中で彼の存在は一目おかれるようになった。要するに「ハクがついた」のだ。
笹川良一との出会い
出所後も児玉は、右翼団体を転々とする。
その最中においても国会ビラ撒き事件や井上準之助蔵相脅迫事件を起こして何度も投獄されている。1932年に釈放されると「独立青年社」を設立。そこで、首相や閣僚を暗殺し、発電所を襲って破壊する計画を立てたが、これが発覚して懲役刑を受けてしまう。
こうして過激な行動を起こしては投獄される日々を過ごしていた児玉だが、ここで一つの出会いがあった。
同じく戦後の裏社会に君臨する笹川良一との出会いだった。
笹川良一は、昭和期には「親孝行のおじいちゃん」としてテレビCMに出演していたが、当時は右翼として一番活動的な時期だった。
その頃、児玉は、自分よりも大物だった笹川の結成した団体「国粋大衆党」に参加する。
この出会いがその後の児玉の人生を左右することになる。これまでただの右翼青年だった児玉だが、笹川が海軍と親しかった関係で、外務省情報部長である河相達夫と知り合い、1937年に軍の依頼を受けて中国各地を視察した。
さらに、1938年には海軍の嘱託となり、1941年から上海で「児玉機関」を運営するようになったのだ。この「児玉機関」での活動こそが、のちに児玉の人脈、財力の源泉となったのだ。
児玉機関は何をやったのか?
児玉機関とはなんだったのか?児玉を語るうえで、一番のブラックボックスと言われているのが、この時期である。
表向きは、戦闘機を作る際に必要となる戦略物資である、タングステンやラジウム、ニッケルなどを中国で買い付け、それを海軍に納入する機関という位置づけだった。
もっとも信頼性が高いとされるアメリカ陸軍情報局の報告によると、児玉機関は鉄や塩、さらにモリブデン鉱山を管轄下にもち、現地で農場や養魚場、秘密兵器工場も運営していたという。また、それらの資金を得るために麻薬であるヘロインを売っていた。
児玉機関が暗躍した上海の街では、児玉機関にとって邪魔な存在が、ある日死体になっていたこともあり、上海に住む日本人たちの中でも児玉機関は、恐れられる存在となっていった(のちに米軍がこの殺人事件における児玉機関の関与を調べたが証拠は見つからなかった)。
そうした行き過ぎた児玉の行動は、とうぜん問題となったが、児玉は日本にいた頃に、海軍の大物である源田実、さらに大西瀧治郎少将とも知遇を得ていた。
大西瀧治郎といえば、神風特攻隊の創始者であり、海軍の中においてもその発言力は絶大だった。彼の庇護を受けたことで、児玉は上海でやりたい放題の日々を送っていた。
また、児玉は戦時中の1942年に衆議院議員総選挙に立候補し、落選をしている。この表舞台に出ようとして失敗した経験が彼を裏社会の人間にしたのだろう。
やがて終戦を迎えると、児玉の手元には海軍に納品するためのダイヤモンドやプラチナなど、1億7500万ドル相当の資金が残されていたという。
これらを朝日新聞のセスナに乗せて、児玉は日本へと戻ってきたのだ。
巣鴨プリズンへと送られる
終戦後、新たに東久邇宮稔彦王が内閣を組閣すると、児玉は内閣参与に任命された。このまま国のために働くかと思われたが、1946年、占領軍にA級戦犯の疑いで逮捕され、巣鴨プリズンへと送られた。
児玉はこの逮捕前に、上海から持ち帰った資産を日本民主党の結党資金として提供した。
この日本民主党がのちの自民党であり、結党資金を出したことで児玉は自民党に対して影響力をもつようになっていった。
ここに児玉の運の強さがある。すぐにつぶれてしまう政党もあれば、後に大きく育つ政党もある。彼がたまたま資金を出した政党は、その後、日本最大の政党となったのだ。
こうして終戦後の児玉は「政治への影響力」という手札を手に入れたのだった。
一方、留置所では彼の人生を変える大きな出来事が起きていた。
「今後CIAに協力するなら、すぐに釈放してやる」
これはアメリカでも報道された、かなり黒に近いグレーな情報である。
一方で、CIAはのちのレポートで児玉について
「諜報工作員としての価値は事実上ゼロ。職業的な嘘つき、ギャング、ペテン師、根っからの泥棒。実際の諜報工作技能は皆無であり、金儲け以外に関心がない」
と酷評している。
虚言癖などは、児玉の特徴ではあるが、この視点はあくまでアメリカ側の視点であり、要するにアメリカから見て「使えなかった」ということであるが、それがイコール児玉が無能だった、ということにはならない。
むしろ、彼らの要望を「はいはい」言いながら、旨味だけ吸っておいて、結局、やらなかったことで、「あいつはウソつきだ」と口汚くののしられている可能性もある。
いずれにしても、CIAに協力することを条件に1948年12月24日、クリスマスイブの夜に児玉は釈放された。
暴力団に影響力を持つ
釈放された児玉のもとには、かつての児玉機関の仲間が集まってくる。その中の一人に村岡健次がいた。
彼はもともと右翼団体・大化会に属していたが、児玉とともに上海で活動し、終戦後は、群馬県の高崎を中心に、博徒を集めて、上州共和一家を結成。さらに、埼玉、群馬の博徒を集めた北星会を結成し、会長となっている。
この村岡の存在が児玉をさらに大きなものにした。
釈放の翌年1950年、児玉は北炭夕張炭鉱の労働組合を弾圧するよう依頼された。炭鉱の男たちを弾圧するには、腕力が必要だ。そこで児玉は明楽組という組織を送りこんで解決している。
その後も、GHQから依頼を受け、暴力団を紹介し、問題を解決することで「児玉は暴力団に顔が効く」という評価を得ることになる。
これだけを聞くと、ひどいやつのように感じるが、当時は、戦後のどさくさの真っ最中である。焼け野原に居座った、在日韓国人の排除のために、警察がヤクザに立ち退かせるよう依頼することもあった時代だ。
まだ警察とヤクザは敵ではなく、非合法行為はやくざに頼みながら、解決していたのが当時の実情だったのだ。
その中でも児玉は特別な存在だった。すでにこの時点で「政治家への影響力」「上海から持ち帰った財力」「暴力団とのパイプ役」「CIA、GHQとのパイプ」という手札を持っているのだ。
いずれもその存在を匂わす(例えば暴力団を送り込むぞという)だけで、人を動かすことができた。
かつては過激な右翼青年という存在だった児玉だが、上海での活動を経て、戦後の日本で闇の調整役であるフィクサーとしての地位を高めていった。そして、それはGHQが存在し、警察の力が弱っている日本において必要な存在でもあったのだ。
岸信介が首相になるために闇仕事を行う
児玉が結党資金を提供した自民党への影響力を健在だった。
1954年には、河野一郎を総理大臣にするために力を貸し、岸信介が首相となる際にも児玉が暗躍した。
当時、首相の座を狙っていた岸だったが、汚職疑惑が浮上し、それを社会党の今澄勇が激しく追及してきたのだ。
この今を黙らせるために動いたのが児玉だった。
彼は等々力の自宅へ今を呼び出し、追及を辞めるよう説得。それが聞き入れられないと分かると、付き合っている女の名前や、使っている料亭、政治資金の出所までが書かれた紙を見せて、これをマスコミに流すと伝えた。
当時、児玉は東京スポーツを所有しており、さらに多くのマスコミに児玉の息がかかった人物を送りこんでいたのだ。
こうして、今の追及が収まると、岸は1957(昭和32年)に総理大臣に就任した。
そんな児玉の権力がピークに達した瞬間が、アメリカのアイゼンハワー大統領の訪日に備えた、右翼、ヤクザの動員だった。
当時は安保闘争の真っ最中であり、国内は物騒になっていた。
とても警察だけでは守りきれないと判断した岸は、自民党の木村篤太郎らにヤクザ・右翼を動員させたが、その時に世話役となったのが、児玉だった。
児玉はこの時に、全国の博徒を団結させ、反共産党の防波堤となる、1万5000人の強固な組織「東亜同友会」を作るために活動を行う。
結局、会は実現しなかったが、1963(昭和38)年には、関西の三代目山口組・田岡一雄組長と、関東の町井会長との「兄弟盃」を実現させた。
これは暴力団・右翼とも幅広くかかわってきた、児玉にしか無し得ないことであった。
結局、アイゼンハワーは来日を取りやめたが、この出来事がきっかけとなり、児玉と暴力団は深く結びついていくことになる。
韓国との国交回復に尽力する
児玉の功績の一つに、日韓国交回復に一役買ったことが挙げられる。
生い立ちの最初に書いたように、児玉は福島から朝鮮にわたり、そこでソウル近郊に住む腹違いの姉に預けられて育った。
当時の朝鮮人たちは、彼に優しく接したという、その恩を返したいと思っていた児玉にとって、日韓両国の役に立つことは願ってないことであった。
背景からいうと、1963年にかつて日本陸軍士官学校出身で満州国軍中尉だった朴正熙が韓国の政権を手にしたが、それは軍事クーデターによって成立した政権であった。
そのため、国際的には認められておらず、日本の政治家は彼に会おうとはしなかった。
だが、児玉は自民党人脈を駆使して、当時の首相・池田勇人と朴との会談を実現させたのだ。
こうして両国の橋渡しを実現する一方で、その後、児玉は韓国の財閥系企業のコンサルタントに就任し、国交回復利権によってしっかりと利益を得たのであった。
株取引でも暗躍する児玉
日韓の間で活動した児玉だったが、フィクサーとしての仲裁の仕事は、次第に企業間の争いにまで進出するようになった。
それが株取引だった。私はかつて総会屋、ブラックジャーナリストと呼ばれた仕事を日本橋で行っていた人物と一緒に仕事をしたことがあり、その際に、児玉について聞いてみたことがある。
すでに60代後半だった彼は「実際には見たことは無い。ただ、児玉が動いている、という言葉は何度も耳にした。それだけで相場が動いた」と語っていた。
ジャパンライン株買い占め事件など、大きく相場が動く裏に児玉がいた。また、一方で関係ない時もあったが、児玉自身否定はしなかったという。そうすることで、実際よりも自分を大きく見せたかったのだろう。
ロッキード事件の秘密代理人となる
児玉を語る時に外せないのが、ロッキード事件である。
児玉へのロッキード社からの依頼は1958年(昭和33年)に始まっていた。「日本が戦闘機を選定する際に、ロッキード社製を選ぶよう児玉の人脈を使って実現してほしい」というものだった。
当時、すでに彼の存在は特別なものになっていた。「児玉が出てきた」というだけで、多くのもめ事は収束に向かった。
そんな児玉の名前がいきなり渦中の人物となる。発端はアメリカだった。1976年(昭和51年)、アメリカ上院で行われた公聴会において「ロッキード社が日本の超国家主義者を秘密代理人として雇い、多額の現金を支払っている」と告発されたのだ。
すぐに日本でも騒ぎになり、その人物である児玉は衆議院で証人喚問が行われることになった。しかし、その直前に彼は「発作」を起こし、証人喚問を欠席する。
さらに児玉は脱税と外為法違反で在宅起訴される。裏社会に君臨していたはずの児玉が窮地に追い込まれたのだ。
だが、追い込まれたはずの児玉だが、その影響力は健在だった。ロッキード事件の発覚が1976年であり、亡くなったのが1984年。彼は8年間も病気と称して、自宅にこもっていたが、この頃に書生をしていたのが、映画監督の山本晋也さんだった。
彼はその当時を振り返って
「児玉さんも凄い人だったね。いろんな大物が出入りするし、活気があったし」
と語っている。彼の家に何個も部屋があり、相談をしたい人が列をなしていたという。
そして、1984年(昭和59年)1月、72歳になった児玉は判決が出る直前に再び発作を起こして亡くなっている。2016年には、児玉の主治医が「記憶が錯乱する」注射を打っていた、という告発記事が出ていた。
そんな疑惑が出るほどあまりにタイミングが良い死だった。
生前「自分が全部話せば、日本がひっくり返る」と語っていた彼は、戦後史の闇を一手に引き受けたまま、文字通り「墓場まで持っていって」この世を去ったのである。
なぜ児玉はここまで巨大化したのか、児玉とは何だったのか。僕は何年もその謎を追い求め、児玉の実像に迫ってきた。しかし、それは人間、児玉をいくら調べても答えが出るものではない。
むしろ、彼は様々な者に利用されてきた。GHQ、海軍、右翼、株屋、そうした連中に利用されながら、一方でその虚像を巧みに自己宣伝に取り入れてテコにしてレバレッジを2倍にも3倍にも利かせることで、「コダマ」という名前を実像よりも数倍も大きくしていたのだ。
その死から30年以上の月日が経った。だが、いまだにその効果は消えることがない。
児玉誉士夫という存在は、日本史の闇にしっかりと刻みこまれているのだ。