文章が上手いってなんだろう、とたまに考える。
僕自身は、時々、このウェブマガジンの読者の人から「文章が上手い」というメッセージをいただくが、そのたびに素直に喜べず、そうかなと悩んでしまう。
上手いってなんだろう。
下手については分かる。ぐちゃぐちゃしている文章がダメな文章だ。悪文と呼ばれるものだ。
そういう文章はたいてい色々と言い過ぎている。1個の文章に色々な意味を載せてはいけない。1個だけ載せる。それを意識すれば多少拙くても、とりあえず伝わる。
例えば、あるところに頭が良くて、話が面白い人がいたとする。
1、彼は頭が良い。さらに話も面白い。
2、彼は頭が良くて話も面白い。
と見れば、1の方が頭に入ってくると思う。分かりづらいと思ったら文章を分ける、というのは一つの手だ。
また、文章のルールとして以下の3つがある。
1、同じ言葉を繰り返さない。
2、近くの文章の語尾が同じなら変える。
3、漢字率に注意する
1の例
その店のカレーは絶品だった。さらに食後のデザートも絶品だった。
2の例
あのお店のカレーが一番美味しいと思う。店主がパキスタン人というのがポイントだと思う。
3の例
毎日同じ作業を自動で設定した結果、当然だが同じ事が反復された。
漢字率はパッと見た時に読みたい、読みたくないに直結するので、例えば上記の文章であれば、
毎日同じような作業を自動で行うように設定してみた結果、当たり前だけど同じことが繰り返された。
とすれば長いけど、読む気にはなるかもしれない。
基本として、そういうことを考えている。
上手い文章にたどり着くには
で、ここからが難しいのだが、そもそも上手い文章ってなんだろう、という話になる。
僕が学生の頃、ライティングの世界では山際淳司が流行していた。
だいたい締めが「○○なのだから」みたいな終わり方をするちょっと臭いけど、かっこいい感じだ。
じゃあ、上手いかというと、そうとも言えない。結局、それは上手いラーメンに似ている気がする。つまり、ある人が「上手いラーメンがある!」と連れていってくれたけど、そうでもない。というあれだ。
そいつが上手いものを食ってないのか、いや、そうではない。好みが違うのだ。
上手い文章もそれに似ている。基本のルールだけちゃんとしたら、最後は結局、好みなのだ。
では、僕は誰を理想としているのか。
それは立川談志である。特に「談志楽屋噺」を読んだ時に「これだ、この文章だ」と思った記憶がある。
参考までに一部を抜粋してみる。
では、ということで、新宿の末広亭でそのことを市馬さんに告げたら、冗談いうなとばかりに逃げ出した市馬さんの所作が、これまたいまだに目に浮かぶ。ということは、現状に対する照れ以外のなにものでもなかったのだろう。
市馬さんは駄目だというから、さてその次は誰にすると聞いたら、小円朝師匠。もし、師匠に断れたら次は誰だと言ったら、柳枝師匠、とこうきた。
この声が聞こえる感じと文章の疾走感が好きだった。僕が書くものなんて、何か思想や哲学を載せて書いているわけじゃない。あくまで情報だ。だからこそ、疾走感は重要になる。スッと読めることが大事なのだ。
でもそれは僕の好みだ。あっさり風味。こってりやる文章もある。臭くやることもできる。全部好みだ。でも、どこを目指すのか。そこだけをはっきりさせれば、後はマラソンのタイムが縮むように少しずつ近づけるだろう。
千里の道も一歩から、というが、そもそもどこに向かうか分からないと、どこにも辿り着けない。
お、上手いと自分が思う文章を分解すれば、どこが魅力かが見えてくるだろう。
つまり、自分が上手いと思う文章を見つけることが、何よりも文章が上手くなる秘訣なのかもしれない。
ちなみに談志楽屋噺はアマゾンだと1円だった。1円って。気になった人はぜひ。