きなこなん式

なぜサブカル男子は40で鬱になるのか?

たぶん半年ぐらいブログを更新していない。文章は断片的に書いているのだが、何一つ完成しなかった。その根底にあったのは、モチベーションの低下。いや、軽めの鬱だったのかもしれない。

そんな時期にたまたま読んだのが吉田豪の「サブカル・スーパースター鬱伝」だった。

きっかけは図書館でECDの本を探していた時だった。たまたま見つけて読んだら、なぜか今の自分にぴったりはまった。

登場するのは、リリーフランキー、大槻ケンジ、川勝正幸、杉作J太郎、菊地成孔、みうらじゅん、ECD、松尾スズキ、歌人の枡野浩一、唐沢俊一というメンバー。

何より面白かったのは、この本では、鬱を避けるべきもの、ならない方がよいもの、として扱ってない点にある。

「人生山あり谷あり」の谷のような、まぁ、その辺で一度下がるよね、という感じで扱っているのが非常に良かった。

ただ、サブカル男子は、40歳で鬱になるという、言葉は本を読み終わっても、魚の骨のようにずっと刺さっていた。

体育会系な男と結婚して郊外に家を買うのさ

この本を読んでいる時期、僕は「ストレンジャーシングス」のシーズン3を見ていた。

そして、そこで出てきたサブカル男子っぽい男が女の子に言った「君もきっと体育会系なマッチョな男と結婚して郊外に家を買うのさ」という言葉がずっと残っている。

ああ、アメリカでもそうなんだ、と思った。

体育会系の男子は先輩にかわいがられ、早めに彼女を作り、ほどよい感じで結婚して子どもを作る。

でも、サブカル男子は、そうはいかない。

下積みが長いのだ。体育会系男子のグラフが上手いこと上昇を描き、安定期に入ったころ。つまり、30歳前後でようやく上昇期を迎える。

そして、遅まきながら、何かを手にしたころ、40歳で鬱になる。そんな気がしてならない。

それはライオンやヒョウのような素早い動物たちの後にやってくる、やせっぽっちの動物のように、頼りないなりにようやく獲物にあり着いた姿を想像させる。

はぁ~成人式に子ども連れてきてたヤンキーとかいたけど、ようやく俺も40歳で落ち着いたぞ。まぁまぁどこかにたどり着いたぞ、そんなこと思う。

いいじゃないか、どこかにたどり着いたじゃないか、そう思うが、一方で気付く。ああ、自分はこれぐらいの人間なんだなと。

もうスーパーカップの大盛を食べるような野性味も無くなり、帰り道のコンビニで袋詰めの生野菜を買って食べる。

背が止まった時と同じように、自分のサイズを認識する。等身大の自分。まぁ悪くない、でも、このままでいいのか。そのループがやがて鬱へと誘う。贅沢な鬱かもしれない。

リリーフランキーは「それは大人の嗜みですよ」という。本を読むと、鬱を経てないなんて、うすっぺらいじゃないか。そんな事さえ感じさせる内容になっている。

40歳で折り返すということ

世の中には二通りの人間がいる。同じ話を何度もできる人間と、繰り返しができない人間だ。ぼくは後者であり、一度した話は基本的には墓に埋めていた。だが、次第に気付く。いや、おれにとって大事な話はこれだ、何度もしないと。

そして、それが「おじさんは昔の栄光の話をする」現象だと気付いてる。気付いているんだ。

そして、これこそが40歳の鬱の本質だと思う。

自分は何かを積み上げてきた。これを繰り返すことで、死ぬまで食うことはできる。話題にだって困らない。でも、それは反復であり、自己模倣である。

ここで自分の中のサブカル男子が声をあげる。「それはおまえが一番嫌いなやつだぞ」と。新しいもの、面白いものを探して生きてきたのに、自分はそれでいいのか、と。これは酷な話だ。今からどうしろというのだ。

サブカル男子は40歳で鬱になる。その本質はここにあると思う。

批評家として、目利きとしての自分は成熟していく。その一方で自分自身は、その批評眼に耐えられない存在になっていく。そこで自己が引き裂かれるのである。

毎晩、若い女の子に渋谷系の話をして留飲を下げるわけにはいかないのだ。

「おい、おまえは面白いのか、つまらないのか、おれは今のおまえはつまらないぞ、どうするんだ」

この心の声にやられてしまうのだ。

もう否定はできないだろう、サブカル男子は40歳で鬱になるのだ。

そして、それを抱えながら生きるのだ。男子なんて言ってられない。良い感じのおっさんを目指すのだ。自分の好きなことを愛し、その領域の外は適当に話し、その領域の時だけ、熱を持って語りだす。

つまり、タモリスタイルだ。樹海を抜けることはない。樹海の中でサバイブする方法を身に着けるのだ。そんなことを考えていたら、半年が過ぎていたのだ。

という更新しなかった理由の長い言い訳です。