日本ヒップホップ史上最高のラッパー・TOKONA-X(トコナX)の生涯とは?

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トコナXが死んだみたいだ、という情報を聞いたのは2004年のことだった。

その死因について「売人からやばいものを掴まされたらしい」という、いかにもトコナらしい情報が飛び交う。

その後、所属事務所から「熱中症に伴う体力低下による心停止」という発表があった。

まだ26歳。デフジャムと契約し、まさにこれからの時だった――。

「どこかでお前の不在を引きずる」

2016年にブルーハーブのボスが、トコナXのトラックに乗せてラップした言葉が、ヒップホップを愛する人たちの総意だと思う。ヒップホップリスナーはいまだにトコナの喪失を引きずっている。

日本のヒップホップ界を背負って立つ男だった。現時点(2016年現在)で、日本史上最高のラッパーは彼だと思う。

最高とは何か?スキルではない、セールスでもない。存在感、フロー、ラップの内容、声の出し方、音の乗せ方、そのすべてが特別であり、オリジナルでオンリーワンだった。2016年、フリースタイルブームでヒップホップに光が当たる中に彼はいないーー。

亡くなったあとに、その存在を知った若い世代のためにも、トコナXの生涯について、リスナーとして昭和53年生まれの人間がリアルタイムで感じていたことも含めて、まとめてみたいと思う。

神奈川県横浜市で生まれる

トコナXが自らの生涯を振り返ったラップ「Where’s my hood at?」では自らの出生についてこうラップしている。

「生まれも育ちも横浜だ 親父は根っからの女好き 気いもんだ おかあは若い時やめたはずのネタ食ってぶり返し パクラれちゃ世話ねぇ 兄貴ゃさじ投げ つれてった先は在所常滑(とこなめ) その後2年か、3年か おかあみたい もしが言えん理由で死んだか?」

この通りなら、かなりの人生ハードモードである。

トコナXの本名は、古川竜一。1978(昭和53)年10月に、神奈川県横浜市南区六ツ川で生まれている。実家は魚屋だったが、歌詞にあるように、母親が警察に捕まったことを機に、平成3(1991)年、中学校入学と同時に、父親の実家のある愛知県常滑市に転居した。

この引っ越し前の時点ですでに悪ガキとして有名だったようで、隣町に住んでいたというオジロザウルスのマッチョは「リュウ」と呼ばれてた有名な男がいた、それがトコナXだったとラップしている。

ちなみに、トコナXという名前は、この時に住んだ常滑(とこなめ)に由来し、ラッパーの中で彼のことをトコナメと呼ぶ人もいるのも、この地名から来ている。

横浜から愛知県に移った彼を待っていたのは「横浜から来た」という理由で、仲間はずれにされ、昼食を一人で食べる日々だった。しかし、次第に拳にものを言わせて少しずつ仲間を増やしていった。不良だったのか、不良にならざるをえなかったのか。とにかく負けん気が強かったのだろう。

家庭においては父親が再婚をしたため、ママ母と腹違いの弟との生活が待っていた。息苦しい生活に加えて、父親が体を壊したこともあり、暮らしぶりも苦しかったことが想像される。

中学時代のトコナは「何で俺だけこんなに不幸なんだ」と自問自答した日々もあっただろう。

ちなみに、この頃の話をすると、バスケ漫画の『スラムダンク』の連載が始まったのは、小学校6年生の時だった。

当時はジャンプ黄金時代で、僕も毎週夢中になって読んでおり、中学校に入学すると早速、バスケ部に入った。また、中学時代はNBAがブームになり、人気のバスケットシューズを購入した若者を狙った「バッシュ狩り」という言葉も登場している。

当時のファッション雑誌でも、バスケのユニフォームを取り入れた、ややオーバーサイズのものが多かった。いまあの頃のトコナのファッションを見ると、スラムダンク→NBAブームの時代の影響が強く残っており、同世代を生きた人間からすれば、時が止まったかのように見える。本当に懐かしい。

やがて、平成6(1994)年、中学校を卒業した彼は名古屋市にある私立高校に入学した(のちに中退)。

この高校時代に彼を変えたのがヒップホップとの出合いだった。

さんぴんキャンプで前座をつとめる

トコナXがヒップホップを知った場所は名古屋にあったレコード店「groove!」だった。そこで国内、海外も含めて様々なラップを聞き、吸収していった。

ちなみに、名古屋のラッパーといえば、ツイギーがいる。ツイギーが刃頭(はず)と二人でBEATKICKSを結成したのは、1987年のことであり、トコナはまだ9歳で横浜にいた。当時はその存在すら知らなかっただろう。

ここでトコナがヒップホップに出合った1994年頃のヒップホップを取り巻く状況を整理してみよう。

1993年、m.c.A.T.の「Bomb A Head!」がヒットする。僕も教室で「ボンバヘ!」と言っていた記憶がある。そして、1994年には、YOU THE ROCK★が伝説のイベント「BLACK MONDAY」を開始する。

客が入らない月曜日の夜にフリースタイルでラッパーたちが次々とマイクリレーをするイベントだった。最初は客が少なかったが、次第にその熱気に魅せられ、人気イベントへと成長していく。

こうしてアンダーグランドが盛り上がりを見せる一方で1994年、小沢健二とスチャダラパーによる「今夜はブギーバック」がヒットする。翌年の1995年にはEAST END×YURIによる「DA.YO.NE」というラップの曲がそれに続く形でヒットチャートに登場する。

この年にはYou The Rockのラジオ「Hip Hop Night Flight」が始まり、キングギドラのファースト・アルバム「空からの力」が発売される。さらにBuddha Brand(ブッダ・ブランド)がN.Yから帰国。まるで革命前夜のように、新しい力が東京のヒップホップシーンに集結していた。ブッタとライムスターのバトルがあったりする中で、ECDはこの熱を形に残そうと、野外イベントを企画する。それが今も語り継がれる伝説のイベント「さんぴんCAMP」だった。

高校時代にラップを始めたトコナX

高校でヒップホップにハマったトコナは、リスナーからラッパーへの道を歩み始めていた。のちにM.O.S.A.D.(モサド)でともにマイクを握るイコールは常滑の団地の前で彼のラップを歩きながら聞いているという。

オリジナルなラップを模索していたトコナの元に、チャンスが訪れる。ツイギーが東京に行ったあとも名古屋に残ってシーンを盛り上げようとしていた刃頭が新レーベル「音韻王者REC.(オーティノージャー・レック)」を立ち上げたのだ。それを知った彼はデモテープを送った。

「ずば抜けてかっこいいやつがいた」と刃頭は当時を振り返る。

そして、そのタイミングで刃頭の元にECDから連絡が入った。さんぴんCAMPへのBEATKICKS(ツイギーと刃頭)としての出演オファーだった。

しかし、相棒のツイギーは「さんぴん」がのちに伝説になるようなイベントとは思わずに、海外に遊びに行ってしまった。当時の日本のヒップヒップを取り巻く上昇気流の裏にある、胡散臭さを感じた彼はいち早くその流れから外れることを選んだのだ。

困った刃頭は「それなら名古屋の活きがいいやつと出よう」と、トコナXを連れていくことにした。

ライブの前日までユニット名は決まっていなかったが当日の朝、トコナが「ILLMARIACHI(イルマリアッチ)はどうですか?」と言って、伝説のユニット名が決定した。

前座として、ステージに立った17歳のトコナは最初に「名古屋だがや!」と叫んでからラップしたという(残念ながらこの映像は過激すぎて残っていない)。

当時観客席で見ていたサイプレス上野は「とにかくかっこいい、若い、俺たちと世代一緒じゃね?っていうラッパーが出てきて。ものすごい東京とかを煽って。会場が盛り上がったっていうのは覚えてるんですね。すげーの出てきたな!みたいな」と振り返っている。

17歳のトコナは、一体どういう気持ちでステージに立ったのだろうか。すべてが東京中心に進んでいく中で、それに負けない、負けてない、俺はここにいる、という強い気持ちで彼はラップをしただろう。

2016年にトコナのトラック乗せてラップをしたジブラは「シーンはお前が牙をむいてでかくなった あれが無けりゃいつの日か根が腐った」とラップしている。

それぐらいトコナXの登場は衝撃であり、脅威だったのだろう。

ステージが終わり、打ち上げ会場に行くと、そこにはILLMARIACHIとRHYMESTERしかいなかったという。そこでトコナとマミーDが同じ横浜市の隣町だったと知り、仲良くなり、朝まで飲んでそのまま翌日にはマミーDに渋谷を案内してもらったという。

レコード会社が若き才能に注目

こうして東京で仲間と出会う一方で、レコード会社からの誘いがきた。

その結果生まれたのが、イルマリアッチとして発表された「荒療治/TOKONAIZM」「NAGOYA QUEENS」、そして1997年に発売した「THE MASTA BLUSTA」である。

この「THE MASTA BLUSTA」こそが、僕が17歳の時に聞いたアルバムだった。刃頭の濃いトラックに、名古屋弁で何を言っているか分からないが、迫力のあるラップが乗る。すごいラッパーだ。後から同い年だと知って、かなり驚いたのを覚えている。衝撃だった。

イルマリアッチとしての契約の3枚を終えると、次にトコナは昔からの仲間である、Equal(イコール)、Akira(アキラ)とMaster Of Skillz(マスター・オブ・スキルズ)という3MCユニットを結成する。

そして1998年に、それが発展してM.S.A.D.O(モサド)となる。ちなみにこの年は、Shing02(シンゴ・ツー)がファースト・アルバム「緑黄色人種」を発表し、そして北海道のTha Blue Herbがファーストアルバム「Stilling Still Dreaming 」を発売した。東京を中心としたシーンが明らかに変わろうとしていた。

プライベートにおいては98年に20歳で結婚し、2000年には娘も生まれている。

この頃は、仲間とラップする一方で足場屋でバイトをしていた。肉体労働をこなした結果、手に入れたのががっしりとしたガタイだった。さらにその影響からか、声も以前より野太くなっていく。

やがて、デフジャムというアメリカの超メジャーレーベルが日本に進出する、という噂が流れてきた。

そのDef Jam Japanが契約したのがNITRO MICROPHONE UNDERGROUNDのDABO、S-WORD、そしてトコナXだった。

「うわ~すごい!トコナ、まじかよ」と思った一方で、納得したのを覚えている。まだ大手と契約していなくて、有望なラッパーは当時彼しかいなかった。

実際にはデフジャムよりも、高額なオファーもあったというが、彼はその契約金でハマーを購入。名古屋でハマーといえば、トコナXのトレードマークとなったのもこの頃だ。

デフジャムからアルバムが出る前にいくつか客演があった。印象に残っているのはハーレムのコンピレーションアルバムでブルーハーブのボスをディスした曲「EQUIS. EX. X」と、MUROの「CHAIN REACTION」(2003年)だった。「トコナXでした~」ってやつだ。

そして、満を持して2004年1月にシングル「知らざあ言って聞かせやSHOW」とアルバム「トウカイXテイオー」が発売された。

いつも行く外資系CDショップのヒップホップコーナーは、トコナ一色なっており、さすがデフジャムと驚いたのを覚えている。

いざ聞いてみると、とにかくトラックも音の乗せ方も、リリックも全てがスペシャルだった。日本人でこんなすごいラッパーいない、と何度も思った。

これまでの僕が知っているトコナXとスケールが違う。10倍ぐらいビックになった新しいトコナがそこにいた。

「トウカイXテイオー」はオリコンで36位となった。2004年は雷も復活し、ヒップホップ界が息を吹き返した年だった。

本人はこのアルバムでメジャーデビューを果たしたがそれに対して「結局、メジャーを通して自分の根っこにあるものをどう伝えるのかって話だから。ヒップホップは普通に作ってきたし、どうせメジャー来んなら、ヒップホップやっている人が作ったポップスって感覚でいいと思ったんだ」と語っている。

また、注目すべき発言としては、日本のシーンについて聞かれた時に「シーンのことなんてどうでもいい。言っちゃ悪いけど、シーンってもんに世話になったって憶えはないから。日本のヒップホップってみんなが言うやつね」とも語っている。

これはシーン=東京と言ってもいいだろう。独立独歩で名古屋の街に自分は育てられて、ここまできた。そういう地元への自負もあったのだろう。

名古屋の帝王に上り詰め、まさに頂点に手をかけようとしているように見えた。デフジャムの契約は2枚あり、次のアルバムこそがトコナの最高傑作になるはずだった。

そんな矢先の11月22日、訃報が届く。トコナXが死んだらしいという不確定情報だった。

どうやってこの情報を知ったのか覚えていない。たぶんネットだと思う。

2004年は、6月にデブラージとKダブによる日本初のネットを使ったビーフがあり、その後の応酬についての情報はたいがい2chにあったので、当時は2chのヒップホップ板を頻繁にチェックしていたのだ。

そんな時、いきなり2chにスレッドが立った。とにかくその日はネットに張り付いていたのを覚えている。ECDが「やばいものを掴まされたらしい」といっていたとの不確かな情報が2chにのる。そっちの方でも有名な人だったが、それでも信じられなかった。

だが、どうやら本当らしい。デフジャムが公式発表を出した。熱中症による体力低下で心肺停止。日本のヒップホップ界にとって、とんでもない損失だった。

本当かウソか分からないが、EXILEのATSUSHIとのコラボレーションの予定もあったという。

まさにこれから、という時だった。

盟友の一人であるダボはブログで当時を振り返って「すぐには泣けなかった。頭が真っ白になってそれどころじゃなかった。え?なに?なにそれ?わかんない。死ぬ?ん?わかんねー。うっそでー。えー。すぐには受け入れられない自分がいた」と綴っている。

ヒップホップ専門誌blastでは、追悼記事が書かれた。編集長の平沢郁子さんは「類まれなる才能を亡くしたことが日本のヒップホップ界にとってどれだけの損失であるかは計り知れません。告別式でのM.S.A.D.O.およびボーラーズの、トコナとの最期の共演は一生忘れないでしょう」と記している。

そう、彼の喪失は計りしれず、ヒップホップを愛する人たちにとって、その心の傷はすぐには癒えなかった。僕は当時、ちょうどツイギーのライブにはまって月に2回ぐらい見ていた。その頃、ツイギーはよくHi-Dとやった「AGINST THE WORLD」をラップしていた。

「飛びながら一時酔わされた あしらえず一人が壊されて また一人二人とお別れが」という部分が、どうしてもトコナを連想させ、CDでは穏やかな曲なのに、いつもツイギーが激しく「神様どうしたい俺を」と怒っているようにラップをするので、胸が熱くなってしまったのを覚えている。きっと僕はあの曲を聞くために、ツイギーのライブに行っていたんだと思う。一緒に追悼するために。

あれから約10年の月日が流れた。同い年の般若や漢が活躍する姿を見ればみるほど、トコナXを思い出す。

彼のライブを見たことは無かった。それだけが悔やまれる。26歳。早すぎる死である。

唯一の救いは、トコナの盟友であるDJ RYOWが彼の曲をリミックスして、近年、般若やアナーキー、ブルーハーブのボス、R-指定、AK-69、ジブラといった現在の最前線を走るラッパーたちとの共演を実現させていることである。

あの曲の作り方は発明であり、ラッパーは何度も蘇り、永遠に生きることを証明した。

そう、トコナXは亡くなってしまったが、ラッパーとしての「死」はないのだ。彼の音がある限り、それを再生するたびに、彼は目の前に現れるのだ。

もう一度会いたければ、再生しよう。日本最高のラッパーの声が聞こえてくるはずだ。

おまけ

トコナXおすすめ5選

DJ Muro – Chain Reaction

New York New York (Lyric)

DJ RYOW『ビートモクソモネェカラキキナ 2016 REMIX feat.般若, 漢 a.k.a. GAMI & R-指定』【Music Video】

TOKONA-X『OUTRO feat. ILL-BOSSTINO』
【Music Video】Produced by DJ RYOW

おすすめのアルバム

本人のインタビューはないけど、刃頭などトコナ周辺の人の貴重な証言が載っている。もっと詳しく知るならこちら。

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