きなこなん式

寅さんはなぜ毎回振られるのか?

最近アマゾンプライムビデオで「男はつらいよ」を見ている。

実家に住んでいたころに父親が見ていたが、僕自身は一度も見たことが無かった。

改めて見ると、これが面白い。

47話あって、いま12話ぐらいだけど、なんとなく何故面白いのか、そしてなぜ寅さんが振られる設定なのかが分かってきたので、その辺りを含めて、本作品の魅力を3つにまとめてみようと思う。

1、昭和の景色が素晴らしい

寅さんを知らない人でもなんとなく寅さんが旅をしていて、マドンナに振られる、という設定は知っているだろう。

その寅さんの旅のシーンがすごく良い。日本中の田舎にある牧歌的な駅舎。田舎の土の道。おばあちゃんがやっているお土産物屋などが登場するのだが、街にある看板、歩いている人々のファッション、話す言葉、そのすべてが懐かしい。

まさに失われた日本の風景なのだ。

昔の景色は良いなぁ、なんてのんきな話ではなく、スタッフは「失われる景色を残す」という使命感をもってロケハンを繰り返し、そこを寅さんに歩いてもらって「うん、いいね」と言った場所を次のロケ地に決めていたという。

つまり、スタッフの強い意志が詰まった風景なのだ。そりゃあ絶品なはずである。

この景色だけで、お茶碗が3杯はいける映画である。

2、寅さんの語りが素晴らしい

「田舎道を歩いていると、一軒の家があって、窓ガラスを見ると、そこに住む家族が食事をとっている、ああ、これが幸せってもんだ、そう思うと俺はいつの間にか涙が流れていた」こういう情景が浮かぶような話し方は、寅さんの特徴のひとつである。

これについて、先日読んだ「渥美清―浅草・話芸・寅さん」によると、この独特の情景描写を積み重ねることで、まるで自分の記憶だと錯覚するほど景色を浮かび上がらせる話術は渥美清の特徴だったという。「短編小説のような語り」とも言われた、その見事な話し方は、幼いころに聞いた徳川無声のラジオの影響だという。

徳川無声なんて昔の人過ぎてあまりよく知らないけど、落語の本を読んでいると「間は魔に通じる」と言う無声の言葉がたまに登場する。

間をとると、魅力的な語り口になるけど、調子に乗って間をとっていると、飽きられてしまう、つまり、難しいんだよ、という話だと思うけど、とにかく幼い日の渥美清は、この人のラジオ朗読を聞いては、母親に真似して聞かせていたという。

いまyoutubeに当時の朗読「徳川家康」が残っていたので聞いてみたら、たっぷりと間をとっていてそれでいて情緒的であり、確かに寅さんの語りの原型のようなものを感じた。

同時に彼は落語が好きだった。彼が寄席に通った時代は、志ん生、文楽、円生の時代である。そういった黄金期の落語をたっぷり聞いた彼の語りは、まさに一級品。ストーリーなんて関係なく、とにかく語りを見て欲しいと思う。

3、なぜ寅さんは振られるのか?

さて、タイトルの謎に戻る。そもそも、テキヤの兄貴はほうぼうを旅するが、たまに家に帰ってきて、騒動を起こし、好きな人ができて振られる、という設定は、渥美清が温めてきたもので、それを聞いた山田洋二があの「寅さん」というキャラクターをこしらえたという。

では、なぜ寅さんは振られるのか。

その前に少し江戸の「粋」について書いてみたいと思う。

粋とは何か?美意識であり、概念である。

例えば「やさしい」という概念がある。もしも、「やさしい」という言葉が現代に通用しなくなったら僕らは「例えば道に迷っている人がいたら声をかけて助けてあげる」とか「子どもにやさしくする」とか「お金をばらまいた人がいたら拾ってあげる」などとやさしいが該当する行為を並べるだろう。

現代において粋は「概念」としての機能を失って、行為などの断片だけが残った状態で、これを拾って来ても「粋」とイコールではないのである。

例えば「子どもにやさしく接する人がやさしい人なんだよ」と言っても、「それって子ども好きじゃない?」と言われたら言い返せないように、概念を失うと、言葉は意味を失う。

ちなみに粋については「粋の構造」という名著もあるが、正直、古すぎて読んでもピンとこない。

で、落語に関する本を読み漁った僕の経験上でいうと、現代人でも分かる粋の要素は以下の3つだと思う。

1、やせ我慢すること

2、色気があること

3、直接的じゃないこと

この辺りが入ると、粋と言えるんじゃないだろうか。

例えば、男はつらいよ、では以下のパターンが多い。

女の子や子どもに寅さんが財布からお金を渡す。

財布を見たらお金が残ってない。がっくりする寅さん

これは「やせ我慢」にあたる。落語の「文七元結」で娘を売ったお金を自殺しそうな若者にあげるのも、壮大なやせ我慢である。

そばをつゆに浸けずに「粋な」食べ方をする人が、死ぬ前に「一度でいいから汁をたっぷり浸けたかった」という笑い話があるが、これもやせ我慢だ。

また、火消しが命を懸けて、火を消した後に上半身裸でゆっくりとしている姿もまた粋だろう。この場合は2の色気があることに該当すると思う。寅さんが「粋なねえちゃん 立ち小便」というけど、これも色気があるねえちゃん、という意味だろう。

そして、3の直接的じゃないこと、という意味では、古今亭志ん朝が髪が伸びた弟子に「髪を切りなよ、おまえは」と言わずに、「そこの床屋が空いてたよ」というのは、粋だなと思う。料理屋で後輩のお金を払っておくのも粋だろう。

つまり、粋というのは損得でいえば「損」なのである。その損得を超えた「粋」という美意識に沿って生きる。そういう世界なのだ。

現代だと、ビートたけしの弟子への行為に若干そういうのが残っている気がする。

では、上記を元に考えた時に、男のやせ我慢が一番発揮されるのは、いつなのか?

それは「惚れた女に別な好きな人がいた時」だと思う。

好きになって告白しようとしたら、「好きな人を親に紹介しようと思うんだけど、どう思う?」と言われて「しらねぇよ、バカヤロー」なんて言ったらダメなのだ。

素知らぬ顔で「そりゃあ、タイミングを見計らって、もう少しで桜が咲くから花見の時なんてどうだい?」なんて言うのが粋なのである。心の中では「あああああああああああああ」となっていても、「やせ我慢」で、ステキなことをいう。

男として、もっとも「やせ我慢」を試される場面が、女の人に無自覚(相手が好きだと気づかずに)で振られた時であり、それを繰り返し描くことで、寅さんは「粋」という失われつつある、日本固有の美意識を永遠に残したんだと思う。

そう思ってみると、本当に愛おしい作品である。

とりあえず、昭和の景色、落語、とりあえず笑いたい、といういずれかがひっかかった人は、ぜひ見て欲しい。アマゾンプライムビデオで全部見れるから。

個人的には、いま「水曜どうでしょう」を見ていて、大泉洋に凄さに震えていて、彼の原点が寅さんの物まねにあり、山田洋二がドラマで彼を起用して、大泉洋が渥美清が乗り移ったような演技をしていたのだ面白くて、現代の寅さん=大泉洋説に興味がある。その辺はまた改めて書く。