きなこなん式

きなこなん池袋bedの思い出を語る

池袋で22年の歴史を誇ったクラブ「bed」が2019年1月31日に閉店した。

僕は高校2年から池袋(厳密には板橋区だけど、マンション名は西池袋)に住み、その後、西池袋で同棲していたから、15歳から28歳までの13年間を池袋で過ごしていた。1994~2006年ごろの話だ。

池袋はいくつかのエリアに分かれる。サンシャイン60や大勝軒がある東池袋方面、ジュンク堂があるびっくりガードエリア、まるで中国に乗っ取られたような北口エリア。

その中で、池袋芸術劇場があり、立教大学もある、丸井の裏のエリアは、比較的人も少なく、良い居酒屋や美味しい汁なし担々麺屋、そして池袋の名店「ABCレストラン」もあった。

当時同棲していた家が、池袋から立教通りを通って帰る場所にあったので、その通りから一本入ったところにある池袋bedは、ほぼ通り道だった。

伝説の夜を味わう

bedは身近な存在であり、よくフライヤーをもらってみていたが、正直そんなに足を運んだわけではない。

誰か来ないかなぁ~と毎月ライブ情報を見ていたが、有名人はあまり来なかった。まだクレバがブレイクする前のファンキーグラマーのイベントや、ラッパ我リア、レゲエ関係とか、そんな感じだ。

辺境とは言わないが、やはりローカルだなと思ってみていた。

その頃、六本木のクラブで「YOYO、俺は板橋のたけし!」ってやつが出てきて、いや、板橋にラッパーはいないだろうと思った記憶がある。

こないだ「関東連合」という本を読んで改めて思ったけど、渋谷のチーマー文化と都内の私立高校のパー券(パーティーやるからと言って金を集める)の流れが、東京のヒップホップの土壌としてあり、渋谷で力を蓄えた人々が次に向かったのは、新宿や池袋ではなく、六本木だった。

ヒップホップの流れが来なかった新宿には漢がいたが、池袋エリアにはそういう人がずっといなかった。そこから遅れてきたヒーローが元板橋録音クラブのPUNPEEとSLACKの高田兄弟だったのだ。そう考えると、自分がなぜPUNPEEに肩入れするかが分かる。郷土愛みたいなものだ。

話を戻すと、池袋は中心地でないからこそ、みんな油断して、リラックスして楽しんでいる気がした。

特にブッダブランドのNIPPSは、よくbedの入口やコンビニでふらふらしていた。渋谷ではみれない光景だろう。

奇跡を見た夜

ふらりと入って、当たりか外れか、という楽しみ方をしていなかったので、結局池袋bedには3回ぐらいしか行ってないと思う。ユウザロックとリノとツイギー。全部雷だ。

その中でも印象に残っているのが、ツイギーのライブだった。

それはトコナXの訃報が出てから半年ほど後だったと思う。

「LOVE or HATE」というアルバムを出したツイギーは、リリースツアー的に色々なところを回っていたのだろう。ツイギーが来ると知った僕は、初めてbedのドアを開けた。

ほどよいサイズの空間には人が大勢詰めかけていて、それでいて観客のほとんどが出演者が呼んだ客という、まるで欽ちゃんの仮装大賞で職場の仲間が盛り上がるような、ほんわかした空気が心地よかった。

ツイギーのライブを見るのは、この時で3回目ぐらいだったが、この日ほど怒っている日はなかったと思う。

「また一人、二人とお別れか! 神様どうしたい俺を!」

CDではスマートに歌っている部分を怒鳴るようにラップするツイギー。

その言葉を聞きながら、天井を見上げた。トコナXを想いながら。

その時、bedにいた誰もがトコナXを思い浮かべたはずだ。トコナとツイギーは同じ名古屋出身。その彼の悲痛なまでの切実なラップが、みんなの心に響いた。

池袋bedの存在意義

渋谷、新宿、池袋。東京の三大歓楽街のように言われるが、渋谷と新宿の距離感に比べて、池袋はやや遠い。僕は新宿の2駅となりの渋谷区に住んでいたので、その2つの街は良く行った。自転車こいで。でも、池袋は遠い。チャリでは行けないのだ。

だが、いざ池袋に住むと、町ゆく人の幅に驚く。部屋着みたいな恰好の人もいれば、ギャルもいる。いけてないホストもいれば、落語家もいるし、中国人もいる。ホームレスとか異常に太った人とか、ピンクの人がいると思ったら寄席に向かうパー子だったり、とにかく色々な人がいるのだ。

最初は驚いたが、次第に慣れた。そして、慣れると心地よくなった。肩に力が入ってない楽さがちょうど良いのだ。

それでいて街にはWAVE、ヴァージンメガストア、タワレコ、HMVが揃っていた。中古レコード店もあるし、音楽的には恵まれた環境だった。視聴がいっぱいできた。

そんな街にあるクラブがBedだったのだ。ヒップホップ界の番外地じゃないけど、おすすめマップには載らない。こんなところに一軒家的なポジションだったと思う。わざわざ渋谷に行ってる人が来るようなクラブではなかった。でも、身内だらけだから生まれる、地方のスナックのような空気感がある温かい場所だった。

あの場所で22年も続けたのは、かなり気合のいることだったと思う。正直、儲かるとはとても思えない。

だが、あそこで蒔いた種は必ず実を結ぶと思う。

ニューヨークに、ミントンズ・プレイハウスというジャズクラブがある。1940年代初めにセロニアス・モンクやチャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーたちがジャムセッションを行って「ビバップ」を生み出した伝説のクラブだ。

そういう話を聞いて思うのは、タイムマシンに乗って当時の演奏を聴きたい!だろう。

それと同じことがbedでも起こるのではないだろうか。いつかのbedのある夜のイベントを「タイムマシンに乗って聞きたい!」と思う人が出るかもしれないのだ。それだけすごい場所だった。

最寄りのクラブだったわりに全然行けなかったが、それでもあの空間を作り出した人たちには心から感謝したい。ありがとう。本当にお疲れ様でした。

板橋のPUNPEEもbedについて語っていて面白いのでぜひぜひ。

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