きなこなん式

DevLarge(デブラージの生涯を2万字でたどる

ここ数年でもっともショックだったニュースは、ブッダブランドのデブラージが45歳の若さで亡くなったことだった。

デブラージという名前は、日本のヒップホップを愛する人にとって特別な響きをもつ。

その存在、影響力の大きさは絶大だった。

デブラージは、雑誌の連載やインタビュー記事、ツイッター、ブログなどで饒舌に発信しているが、その全体像というのは、意外とつかみ切れていない。

そこで今回は、本人が語ったこと、書いたこと、また周囲の方々のインタビュー記事などをもとにデブラージの生涯をまとめてみた。

ちなみに僕がデブラージを生で見たのは、漢のファーストアルバムのリリースパーティーで「毒立毒歩」のラップしている姿を見た一回だけである。

ステージの奥でひっそりと出番を待ちながら、自分の順番が来たら120%を出す。さんぴんの映像と同じデブラージの姿がそこにはあった。

とはいえ、僕よりもっと多くのライブを見ている人や周囲にいた人に比べて生のデブラージについては詳しくない。これから書くのはあくまで、デブラージを好きだった人間が、彼が発信したものをまとめて再構成した記事である。

絵ばかりを描いていた幼少期

ブッダブランドのデブラージこと、今 秀明(こん ひであき)が生まれたのは、1969(昭和44)年11月24日、東京都渋谷区の代々木だった。

今(こん)という苗字は非常に珍しいが、その苗字は東北地方に多く、ルーツは平安時代後期に陸奥国気仙郡の郡司に任ぜられた、金為時(こんのためとき)の末裔として広まっていた家系だといわれている。

彼の祖先のことは詳しくはわからないが、デブラージは祖父のことを語っている。デブラージの祖父は秋田におり、県内でも有名な大工だったという。デブラージの職人気質は、このおじいさんに源流があるのかもしれない。

母親の故郷は群馬にあり、デブラージによると「いつも酔っ払ってたイルな変わり者じいさん」がいたという。

両親について、デブラージは母親を「マザーグース」と呼んでいたことをブッタブランドの他のメンバーは語っている。

一方の父親はとにかく厳しい親だったそうだ。くだらないものは買うな、とおもちゃやテレビゲームは買ってもらえず、悪さをすると夜中にパンツで外に出されて、ホースで水をかけられて家に入れてもらえなかったという。

そんな両親のもとで育ったデブラージは「とにかく絵ばっかり書いていた」少年期を送る。

そして色々なことに疑問をもち「何で?何で?」と質問ばかりする子どもだったという。代々木にいた頃に好きだったのが、家の周りにあった本屋を回ること。新しい本は出て無いか、面白い本は無いかと回るのが、幼き日のデブラージのルーティンだった。

デブラージは1969年生まれだが、年齢が近いラッパーでいうと、のちにビーフの相手となるKダブシャインは、1968年生まれと一つ上。ライムスターの宇多丸、スチャダラパーのBOSEが同じ1969年生まれ。MURO、マミーDが1970年なので1つ年下、ジブラとユウザロック、ツイギーは1971年生まれのため2つ年下となっている。

N.Yに引っ越しをする

デブラージにとって大きな転機となったのが、小学校4年生の時に親の転勤でN.Yに引っ越したことだった。1978年のことだ。

住んでいたのはクイーンズのフラッシングという街だった。

英語が分からないままこの街に住むことになったデブラージが最初に夢中になったのが、マーベル作品を始めとするアメリカのコミック漫画、通称「アメコミ」だった。

絵を描くのが好きだった彼はX-MANのヴィヴィッドな絵の色を気に入って即購入し、それを見て練習する日々を過ごしていた。

当時の夢はX-MANの発行元である「MARVEL COMIC(マーブル・コミック)」に就職すること。あまりにアメコミが好きすぎた結果、のちに近所のコミック屋のレジのバイトまで始めてしまったほどである。

その頃の日々についてデブラージは

好奇心旺盛で何でも知りたがりだった病みガキな俺は、全く英語は話せなかったがとにかく学校が終わると1人で街を探検していた・・・。ウイークディはフラッシング内、土日のタップリ時間が取れる日は知らない街まで、行けるとこまで行くと決めて、金がなかったのでひたすら歩いていた

と振り返っている。

そんな日々を過ごす一方で、その後の音作りにつながるような遊びも行っていた。

それは絵のサンプリングだった。漫画の中の好きなシーンだけを切り取って、自分だけのストーリーを作ったり、気に入ったものをコピー機を使って拡大したり、縮小したりして、コラージュを作っていたという。

このコラージュの経験が、のちのヒップホップの音作りの中で生かされていく。

11歳でレコード収集を始める

コミック好きの延長として出合ったのがレコードだった。生涯続くレコード集めはこの時に始まった。1982年、11歳の時だった。

「パッケージとかの絵が良い感じなんで、とりあえずそれが欲しくて、集めたくて買っていた」

同時にその頃からラジオを聞き始めている。80年代のN.Yのラジオといえば、ヒップホップがずっとかかっているイメージがあるが、デブラージが聴き始めた頃は「まだラップという言葉もないし、たぶんヒップホップという言葉も無かったんじゃないかな」という状況だった。

そのため、まずはラジオでかかるTop 40を中心に週に1枚ずつレコードを買っていたという。

ヒップホップカルチャーを紹介した『WILD STYLE(ワイルドスタイル)』が制作されたのが1982年、公開は1983年だったことを考えると、彼がラジオを聞き始めた頃は、まだまだヒップホップはアンダーグランドな存在だったのだろう。

それが変わる出来事が起こる。1983年、Run-D.M.C.の登場だ。

彼らは1983年に「It’s Like That」でシングル・デビューを果たすと、1984年のファースト・アルバム「Run-D.M.C.」でミリオン・ヒットを記録し、ヒップ・ホップのアルバムとして初のゴールド・ディスクを獲得している。

デブラージはアメリカにおいて、ヒップホップがアンダーグラウンドからオーバーグラウンドになる瞬間をリアルタイムで見ていたのである。

デブラージ自身、彼らのデビューシングル「It’s Like That」を速攻で買っていた。

「とっぽい奴はみんなラップを聴いていた」という環境のなかで、次第に同級生たちとラジオで行われたフリースタイルなどの話題について話し合うの日々が続き、集めるレコードもラップが多くなっていった。

しかし、そんな生活にも終わりがやって来る。1984年、デブラージはニューヨークから帰国することになったのだ。

帰国した時に感じた飢餓感

デブラージが帰国した時、住むことになったのは神奈川県の茅ケ崎だった。

「日本に帰って愕然としたんだ、全くラップが流行ってなかったから」

茅ケ崎という土地柄もあるのだろう、当時、周りが聴いていたのはサザンオールスターズやチューブだった。

デブラージは高校では放送部に入ったが、ラップを流すと「うるさいのは止めてくれ、サザンをかけてくれ」と言われた。

とうぜん周りと音楽の趣味が合わず、ラップを聴きたい、という飢餓感が募っていく。それを埋めてくれたのは、夏休みにN.Yに戻った時だった。

N.Yでは週末になると家にこもり、ラジオをずっと録音して、大量のテープを持ち帰り、それを日本で聴くという高校生活を送っていた。

だが、自分の聴きたい音楽が聴けないフラストレーションは溜まっていく。しかし、日本では良いレコードは掘れない。その結果、彼は再びニューヨークの地へ向かうことになった。

山ほど買いたいから、またニューヨークに戻っちゃったんですよ、高校卒業して。そこからですね、本当探求の旅は

二度目のニューヨーク時代

ニューヨークに戻ったデブラージは、以前よりも明確に音楽で食べていくことを意識していた。

最初はDJになりたいと思ってたんですよ。でもどっかでDJにかけさす音を作りたいなっていうのがあった。それでファンキー・スライス・スタジオってのがブルックリンにあって、そこにインターンにいくようになった

毎日ではなく、週に数回行く程度だったが、そこで彼はスタジオワークについて学んでいく。

なぜ彼はヒップホップを生きる道として選んだのか。

もともと、トラック・メイカーやDJになりたいと思ったのは「レコードを買ってた」ってトコから始まってるんですよ。っていうのは、RUN DMCの“JAM MASTER JAY”を聴いたときに、カッコ良いと思うと同時に、それまでに自分が買って聴いてたMAGIC DISCO MACHINEの“SCRATCHIN’”が使われてるって気付いて「こういう音楽が、音楽の作り方があるんだ」ってことに驚きを受けたんですよ。そこで考えたのが「俺にもできるな、アイディア勝負だ!」ということだった。たとえ楽器は弾けなくても、音楽的な素養がなくとも、楽器が弾けてメロディやフレーズが降りてくるような人間じゃない俺でもできる!

これまで集めたレコードがあれば戦える、自分にもできると彼は確信したのだ。

その一方で「ちょっとずつ解ってきたんだけど、やっぱ機械をいじくる人じゃないなーっと思って。アイデアはあるけど、俺機械弱いなーって解って」ということから、エンジニアなどには向いていないことを悟ったのもこの時期だった。

ブッダブランドのメンバーとの出会い

ブッダブランドのメンバーである、MCのNippsとCQ、DJのマスターキーとどのように出会ったのか。

それぞれ出会いはバラバラである。

まずNippsは、産まれてすぐ家庭の都合でNYに来ていた。その後、日本とアメリカの両方の国を行ったり来たりしていたが、20歳の時に東京がつまらなくなり、再びN.Yに戻ったのだ。

そこでやっていた仕事が当時N.Yでも撮影を行っていた「ズームイン朝」のADだった。そこで照明などをやっていたところ、2週連続で収録にやってきた黒人のようなかっこうをした日本人がいた。気になったNippsが声をかけ、レコード屋などを案内するうちに仲良くなったのが、後にブッダブランドのDJとなるマスターキーだった。

では、マスターキーはなぜN,Yにいたのか。彼はもう一人のMCであるCQと幼馴染であり、近所に住んでいた。日本で特にDJの経験は無かったが、お金を溜めてニューヨークに行ってみたところ、二人ともDJの仕事を得て、目下、武者修行中だったのだ。

一方、デブラージが最初に出会ったのは、マスターキーだった。

当時のデブラージは「れんげ」というレストランでアルバイトをしていた。そこに客としてやってきたのがマスターキーだった。デブラージはマスターキーに「ヒップホップ、好きですよね? 今日遊び行っていいですか?」と声をかけてきたという。

当時の印象についてマスターキーは「すごい人懐っこくて。その時からニューヨークで知り合って、よくつるむようになった」と語る。

やがてマスターキーがCQとNippsをデブラージに紹介し、N.Yの地で4人は出会うことになる。

1988年、最初に付けたグループ名は「うわさのちゃんねる」だった。

一時期は4人で一つの部屋に住むほど、仲の良かった彼らだが、当時の役割分担について、デブラージはこう語っている。

マスターキーがDJ、Nipps、CQがMCで、俺は付属品というか曲を作るやつだった。だから、マイクに触れようとも思ったことすらなかった。いつもマスターキーの家に集まって、アーダーコーダいじって練習していた。マスターキーの回す曲に合わせて二人がラップしているのをいつも横で聴いていた。本当に日本語でこんなにカッコイイ詞が書けるやつがいるんだって思ってたよ。俺のルーツは日本語ラップに関してはNippsだ。彼の詩のイルさにやられて、俺は詩を書き始めた。もともと文を書くのは得意だったが、詩を書こうとはあの時まで一度も思わなかった。それが92年のアタマぐらいかな。その辺から俺は変わりだした

ではNippsはどのように歌詞を作っていたのか。

その手法について本人は「自分で喋れる言葉っていうのは、カタコトの日本語と、カタコトの英語だから。その自分の使える言葉で始めた。特に日本語や英語を意識したとかではなく、単に自分のボキャブラリーでラップしただけ。全部英語で出来ないし、日本語でも出来無い」と本人は語る。つまり、できる範囲でやっただけだと。でも、それだけではないと思う。

その後も日本のシーンに帰国子女のラッパーは現れたが、Nippsのワードセンスの良さ、比喩の使い方、フロー、そしてワンフレーズがずっと残るパンチラインの強さは飛びぬけている。

それを聴いていたデブラージが影響を受けないはずはない。

こうして次第に3MC、1DJというブッタブランドの形が見えてくる。

この10代最後の時期に、デブラージは日本に一時帰国し、1年間日本で過ごしていたようだ。ブログにこんな記述がある。

当時、俺は観光目的で1カ月の予定で帰国していた。高校時代の友人の吉祥寺にあったアパートに居候しながら、週5で蒲田にバイトにいっていた。しかし日本で好きな女が出来て1ヶ月の滞在が、一年になってしまっていた…。貧乏だったが、毎日がスリリングな勉強な日々だった。2人一組でトラックでスーパーとか、ドラッグストアーに洗剤とか歯ブラシとかいろんな物を配達してた

また、この時期に大崎に住んでいたこともある。

「親父の友人の叔父さんのとこに、少しの間ただで居候させてもらっていた。それが大崎だった。とにかくお金が無くて腹を空かしていた思い出しか無い。チャリも無く金も無いからひたすら歩いていた。今じゃとても出来ないような距離を歩いていた。その頃よく腹を空かして繰り出したのが“好きですこの街”戸越銀座だった」とも語っている。

この一時帰国について他のメンバーの証言が残っている。そのころ、デブラージは日本でのキミドリの活動などを知り「なんであいつらがレコード出してるんだ、絶対負けねぇ」と急にやる気になって帰ってきた、と語っている。

ちなみに、親の仕事の関係でN.Yに来て暮らして、という話を聞くと金銭的に恵まれた環境のように思えるが、他のメンバーによると当時のデブラージは「人が食うの待って。残すの待ってる」ほど金が無かったという。

いつもレコードを買うためのお金を持って、トークン(N.Yの地下鉄の切符)を往復2枚持って、お昼は25セントとかのピンク色のスポンジケーキみたいなものを食べ、飲み物は水筒を持っていたという。

さらにレコードを買うためにフラッシングから半日かけてクイーンズまで歩いて行ったりしていた。

当時の彼は生活の全てをレコードにかけていたのだ。その積み重ねが少しずつ形になり、ブッダブランドとして活動が活発化していく。ライブでの活動も始め、「リリシストラウンジ」という日本でいう「スター誕生」のようなイベントにも出演したという。

また、デブラージは当時、ミュージックセミナーの通訳の仕事も行っていたため、その頃、日本で一番ハードコアなラップをやっていたグループ「マイクロフォンペイジャー(ムロ、ツイギー、PHフロン、DJゴー)」とも、彼らが84年にN.Yでセミナーを受けにきたことをきっかけに仲良くなったという。ユウザロックやDJベンザエースもN.Yに遊びに行き、その頃には仲良くなっていた。

当時の日本のシーンについてデブラージは「ムロがニューヨークに遊びに来ていたから、ペイジャーがハードコアなことをやっているのは知っていた。だから日本にも、ハードコアなヒップホップを受け入れる土壌はできてると思っていた」と語っている。

N.Yにいながら彼は日本の状況をしっかりと分析していたのだ。いよいよ時期は来た。自らのグループの力を試すためにブッダブランドの4人は帰国することを決意した。

デモを受け取ったECDからカッティングエッジへ

ECDはその時、N.Yから届いたデモテープを聴いていた。

ブッダブランドがN.Yで録音した『FUNKY METHODIST』だった。

ECDはその衝撃を「ここ日本では生まれようのないラップだった。僕はツイギーやムロくん、会うラッパーごとに彼らのテープを聴かせまくった」と語っている。

そして、彼は自らの所属レーベルであるカッティングエッジに行き、担当者にテープを聴かせた。

担当者はそれを聴いてすぐに契約をしようとするが「エイベックスの法務の人に『すごい新人が来た!何とかしよう』って言ったら、その時はまだヒップホップが日本で売れるなんて誰も思ってないから、『でもこんな人たちには印税は払えません』と言われたため、最初のアルバムは買い取り契約になっていたという。

結局、10万枚以上売り上げた、このミニアルバムは印税契約ではなかったのだ。

デブラージ本人もそんなに売れると思っていなかったのか、それともこれからもっと売れるから前哨戦と思っていたのか分からないが、本人も「構いません」と言って決まった契約だった。

この頃はまだブッダのメンバーはN.Yにいたが、ECDからカッティングエッジの反応は聞いていた。またマーケットもすぐに反応した。

この頃についてデブラージはこう語っている。

「日本に持っていったらみんな欲しくなるような、すごい自信があるものを作った。プレスしようということになってジャケットなしで300枚作った。持って帰ってすぐはけて、リプレイスもすぐはけて。デモをECD(石田さん)に送ったりしてて、石田さんがカッティングエッジのディレクターにくっつけてくれて、さんぴんキャンプで1曲入れようとなった。オリジナルとリミックスを両方できてて、どっちが良いかと思ったが、メローな方を選んだ。もう1曲取ろうとなって、『獣物道』をとった。その反応も良かったので、カッティングエッジがEPを作ろうとなって、人間発電所EPができた」

この人間発電所についてデブラージは、当時、日本のクラブでフリーソウルが受けていることをリサーチし、そのうえであのトラックを作ったという。

同時に気持ち良いトラックに、ハードなことを言うバランスを非常に意識していたという。

その狙いは当たった。またたく間に彼らの噂は当時のファンに広まっていったのだ。

この頃は、一リスナーだった、サイプレス上野はこう語っている。

「当時のシーンで、全員が買わなきゃいけないという使命感を持たされたものだったね。でもほんとブッダは『外国人』だよね。聴覚上での日本語ラップ感が全然なかった。当時は野茂がアメリカで活躍し始めた時でしょう。そういう『日本人かっこいい』みたいな感覚が出てきたよね。マック鈴木とか西島洋介山とかさ(笑)。その時代にブッダが出てきたっていうのはでかいんじゃないかな。〈逆輸入〉だ。俺らにとっての〈黒船〉はリア・ディゾンじゃなくてブッダでしたよ

ちなみに、帰国前に日本の状況をリサーチしていたデブラージは「Nippsは日本のやつらは大したことないと思っていたが、二人だけやばいと思っていたラッパーがいるという」。

それがRINOとTWIGYだったそうだ。

そしていよいよブッタブランドが帰国する。95年のことだ。

帰国直後に即満員。そして証言の収録へ

帰国にあたって大きな役割を果たしたのが、後にさんぴんキャンプを主催するECDだった。

彼がカッティングエッジとつなげたことで、日本では無名のラップグループの帰国ライブにヴェルファーレという当時最大級の会場が用意された。収容人数は1500人。それが満席だった。

観客がみなサビを歌うなど、異常な盛り上がりだった。

95、96年という年は、雷やキングギドラの登場、ライムスター、ソウルスクリームの成熟によって、明らかに日本のアンダーグランドシーンは盛り上がっていた。

同時に、それを飯のタネにしようと「コンピレーションアルバムつくろう」と「イベントやろう」と集まってくる連中もいた。

ジブラが「なめた呼び屋」と呼ぶその連中を始め、さまざまな当時の怒りをぶつけた曲が日本語ラップにおいてもっとも重要な1曲となる『証言』だった。

そして、ここにトリとして参加しているのは、帰国直後のデブラージだった。しかし、この登場は実は予定に無かったものだという。

デブラージはその状況についてこう語っている。

日本帰って、ユウの家に泊まってて、寝坊して、急いでスタジオ行った。証言の日。ヤスがトラック作ってて、俺は入るはずじゃなかったけど、その場で書いて録った。ユウザロックのブラックマンデーとか、当時はそういうのが多かった。本当はムロかUZIだったのが、俺が入ることになった。クラシックみたいに言われることになった。本当は雷とジブラだけだったのかもしれない

ユウザロックはその時の状況についてさらに詳しく語っている。

スタジオに行く前に恵比寿のラーメン屋。香月の横になか卯があって。そん時、俺とコンちゃん(デブラージ)、エアコン持ってなくて。なか卯で2人で牛丼一杯たのんで。2人で6時間ぐらい、『お茶ください』とか言いながら、ずーっとリリックを。『よし、書けた!書けた!よし、行こう!』っつってスタジオまで行った

こうしてさんぴんCAMPを象徴する一曲である『証言』が誕生する。

さんぴんCAMPでトリをつとめる

今では伝説となったイベントさんぴんCAMPについて、開催前にECDは専門誌のインタビューで「最初はとにかくブッダだった。彼らが一時帰国した時に絶対レコーディングしたくて、でも、シングルはきつそうだったからオムニバスにしようって考えて、でもただのオムニバスじゃつまんないからサントラってことにして映画も作っちゃおうと」考えたという。

その後、会場を押さえ、ECDが直接電話をして出演者を決めていった。

もちろんトリはブッダブランドだった。

だが、実はデブラージ自身はこのイベントのビデオを見返していない、という。

俺的にはあの日ラストを飾るはずだった、メイン曲の「発電所」が針飛びして上手くリカバー出来ず、仕方無く魔物道で締めたってのが納得できなかった。だから一度もあれ以来、あのもらったビデオは通して見ていなかった

このイベントを機に、ブッダブランド、そしてデブラージという存在は一気に大きくなる。

97年には「天運我れにあり」でTVCMデビューを果たす。

だが、日本のシーンを背負って底上げしようとするデブラージが熱くなる一方で、メンバーそれぞれに意識のずれが出てくる。

特に天才肌のMCである、Nippsは違うことを考えていた。

ブッダのときも、ラップやろうと思ってたけど、趣味だったんですよ。仕事にしようなんて思わないし。なんかそういう、仕事として、ラップでビッグになろうみたいな、あるじゃん。そういう人いるんでしょ?僕ね、“デミさんはラッパーだからね”とか、“ラップすることがあなたの仕事よ”とか言われてて、うわ~、何それと思ってて。理解できなかったの、僕には。何それ?ラップが仕事?って。ありえないよ(笑)

この意識のずれが決定的になったのが、97年の「鬼だまり」だった。

Nippsがブッダブランドを脱退

当時のデブラージはラッパーでありながら、ブッダブランドのフロントマンとして、チームを総合プロデュースしていた。

彼は「鬼だまり」というイベントにあたって完璧なステージを見せようと、練習を繰り返していた。しかし、Nippsは連絡もとれず、練習に参加しなかった。そのため、ここは1DJ、2MCで臨もうと決めて本番のステージに上がったところ、Nippsが登場し、ステージにあがってきたのだ。

デブラージが「それはないだろ、デミさん!」とキレてステージ上で一触即発状態になる。その場はユウザロックがなんとか抑えたが亀裂は残った。

その後、デブラージが当時連載していたヒップホップ専門誌で、「俺だって家族から脱落者は出したくない」としながらも、「俺とスピード、やり方、基本的なものの見方が違う」と書いたうえで「Buddaは解散していない。しかしBudda Brandは皆が予想していた通り3人だ」とNippsの脱退を発表する。

この決断は前に進むためには正しかったと思う。ただ、ブッダブランドはここで「無敵の3本マイク」ではなくなってしまった。何かが変わってしまったのだ。

こうして98年を迎える。後にデブラージはこの年をこう振り返っている。

98年は煮詰まっていたよ。BUDDAでもぜんぜん形にならないし、で、外に目が向いちゃって、もっとやる気のある若い人がいるんだったら、そういう人たちを世の中に紹介したいなと。それでEL DORADO(エルドラド)を作って、ランチとかスイケンとかを出して。俺だけが走っても底上げにならないなと

こうして自らレーベル、エルドラドを立ち上げて、若手のプロデュースを行うようになっていく。

エルドラドの動きは勿論命かけて売りたいなーって思うアーティストがいたら呼んで、その人を行けるとこまでケツ持ちたいんですけど、今考えてるのは、とりあえず第一段階として、今スイケン、ランチやってて、メジャーに繋がったんで、彼等を同じ土俵の立てるとこまで連れてきたいなっていうのが凄いあるんですよね。対レーベルって所でブッダと同じレベルまで連れてこれる様にしたいなっていうのはあるんですよ

一方でブッダブランドの活動はかなり縮小傾向となる。

また、ブッダブランドの失速には、雷の活動休止が大きかったのかもしれない。さんぴんCAMPが終わった後、リノとツイギーはこの騒ぎは「さんぴんバブルである」と見抜いて、すぐに喧騒から抜けた。その結果、雷はシーンからいなくなった。

もともと雷はグループではなく”現象”であり、シーンがおかしくなったときに雷を落とす存在だった。そのため、シーンが表向き上手く言っている時に、雷がやることはない、彼らはそう考えたのだろう。

しかし、デブラージは違うことを考えていた。雷こそが起爆剤となり、すべてを変える存在だと思っていたのだ。

とにかく雷が一番熱かった。ラップがまだシャキッとしてて、カウンターで有った時代だ。当時雷は新しくハード過ぎて、他のものを吹き飛ばすような勢いが有った。多分他のお利口さんラッパー達は、相当やりずらかった時代かも知れない。とにかく雷を落としていた。日本帰国後(ちなみにサンピンのブッダ帰国シーンは、やらせの後撮りをやると聞いて、あまり気が乗らなかったもんで映っていない)間もない俺は、今までに無かった新しい力を感じて、このまま雷が、アンダーグラウンドからテイクオーバーして、いい形で日本がヒップホップウィルスに犯されて行くと思っていた。しかしそうはならなかったが・・・

雷がいなくなり、シーンを支えようともがくが、何かが空回る日々。

この頃からデブラージは、「俺はラッパーではない」と発言するようになる。

実際にトラックメイカーとしての仕事が増えていく。

この頃の主な活動をあげておくと、1997年には、MOOMINの「MOVE ON」で編曲とラップを担当。1998年には、ブッダブランドのファンだというV6の森田剛の「DO YO THANG」をプロデュースしている。

トラックメイカー、DJとして存在感を発揮する

ブッダブランドの活動は依然として、動かないままだった。

これは2011年に『LOST 10 YEARS (AIN’T DAMN THING CHANGE!!)』を発売した時に語っているが、ずっとNippsが詩を書くと言っていたのを待っていたらしい。

この10年の間にCQはマキュウが出たり、俺がソニーからソロ・ラップ・アルバム、LIBYUSからインスト・アルバムも出しましたが、心のどこかでいつかまた3MCで……と考えてて、『書く』と言うNIPPSの言葉を信じて、なんだかんだずっと待って待って10年経ってしまいました。いい加減目を覚まして、なくした10年に一区切りを付けて、新しい一歩を踏み出そうと決めてタイトルをつけました

ブッダブランド時代のデブラージから想像したような輝ける未来ではなかったかもしれないが、それでも彼は確実に間違いない仕事を続けていた。

DJとして定期的な活動を続け、レコードを掘り、さらにその領域は和物にも広がっていった。

音作りのこだわりについてデブラージの力強い言葉が残っている。

今どきインストだけで、feel出来る曲が何曲有るんだろう?ネタを選び出す確かな耳を持つ人間が少ないんだろう…ほとんどの耳に入る曲が、辛うじてラッパーの声でバランスを取っていて、声抜きだととても聴けそうにないものだ。そう言った意味で俺は絶対、曲100%、詞100%でトータル200%なものが好きだ。常にそういった物作りを心掛けている。だから、DL印は普通じゃなく並外れているのだ普通の詞と曲で100%みたいなのは俺的にはあり得ない

そんなデブラージが2004年にいきなり注目を集めることになる。

日本初となる、インターネットを使ったKダブシャインとのビーフだった。

Kダブのディスに対してネットでディスソングを発表

僕がこのニュースを知ったのは、当時見ていたヒップホップ系のニュースサイトだったと思う。

とにかく紙ではなく、ネットで見た。

その痛烈なディスソングを聴いた時は、その悪意あふれるラップに「うわ、本当にデブラージなの?」となったのを覚えている。

その後、本人だと分かり、Kダブもアンサーして、それをさらに返したところで終息した。

あまり気分の良い内容ではなかったし、デブラージの粘着質の悪いところが出たと思うので、詳細に触れようとは思わないが、一番の問題はKダブがラップバトルで「ブッダを食った」と言った歌詞についてデブラージが怒っていた点にあると思う。

Kダブ的には「ブッダ」「食った」で韻を踏んだのだろうが、ブッダブランドを「聖域」と語るデブラージからすれば「あの場にブッダは居なかったんだ。俺しか居なかった」という言葉が正しければ、事実をねじまげており、彼が怒るのも当然だろう。

この二人はのちに和解しているが、それには10年の歳月がかかっている。

悪化する体調との戦い

ビーフの翌年、2005年にはDEVLARGE THE EYEINHITAE名義で1stインストアルバム『KUROFUNE 9000』を発売。

だが、この頃から少しずつ体の中で異変が起きていたのだろう。

タバコを止め、食事の面でも体に気を遣うようになっていく。

2006年、11月には久々のラップが入った『THE ALBUM (ADMONITIONS)』を発売。デブラージらしい熱いメッセージのこもったラップを披露している。

この頃には体調が悪い日もあったようで、2008年の北海道の物産展に行ったというブログでは、勢いよく食べ物をゲットするおばあちゃんを見ながら「あのオバーサン達の歳になる頃、まだ自分があんな風に食欲を持ててるか気になる?それより生きてるか?そっちが気になる…」と弱気な言葉を書きつづっている。

2009年にはブッダブランドはアルバムを作っているのか?という質問に対して「作っていない。というよりたぶんブッダブランドはもう無いと思う。少なくとも俺は抜けたから、俺無しなら有りうるのかも」と語っている。

「俺無しならあり得る」という言葉は、他の3人とデブラージとの距離を表しているようにも思える。

「職人肌の俺には許せねぇ」とラップするデブラージのこだわりの多さは、良い部分が出ると傑作につながるが、悪い部分が出れば周囲からすればただの「面倒くさい人」になる。

そのバランスが崩れてしまったのか、ブッダブランドは完全に活動を止めてしまう。

また同時に「俺は世の中のご意見番では無い。あれこれ聞かれても、俺の狭いマトの中央を射抜くような質問じゃないかぎり声は聴こえない。つまり普通なみんなと同じ人間だ」と語るなど、虚像と実像のギャップに苦しんでいる様子もうかがえる。

2013年には体調不良でイベント中に倒れてしまったという。

それをマスターキーから「DEV LARGEも最近倒れて、危なかったんだよ」と聞かされたKダブシャインはある決意をする。

デブラージとの和解だった。

このまま揉めたままでは後悔する。水に流して和解したいなと思ったんです よ。そしたらたまたまその後、MAKI君の追悼イベントがある日の昼間に、俺の地元の駅でDEV LARGEにばったり会って。で、体悪くしてたこと打ち明けられたから『生きててくれないと困るよ』って伝えたんですよ。それで握手して。それでその夜、 BUDDHA BRANDが盛り上げてるのを観て、『うちらもキングギドラまたやるからBUDDHA BRANDもやりなよ、一緒にコンサート回ろうよ』って話をしていたんですね

こうした美談がある一方で、デブラージの体はさらに弱っていった。それでも心は折れていなかった。

2015年1月デブラージの公式ツイッターが鈴木みのる氏のこんなつぶやきをリツイートしている。

「身体が弱ると心をガリガリと削っていく。あれだけ太かった心も細くなっていく。だからこそ「絶対に折れない」という強い意志が必要。だからこそ「前だけを見る」という魂が必要。それらはいくつになっても「夢を見る」ということと比例している。馬鹿げた夢はお互い様。オレは叶うことを疑わない」

その一方で彼のツイッターに残っている当時の写真を見るとかなり体が弱っているのが分かる。

そして、2015年5月4日、早朝にデブラージは病気によって亡くなる。正確な死因は発表されていないが、病気であることは事実だろう。

そのニュースがヒップホップ界につたわると、すぐさま追悼イベントが企画された。

追悼イベントに集まったかつてのBボーイたち

追悼イベントの日。僕は子どもがいるため、参加できなかったが、仕事帰りに渋谷の会場の周りをスーツ姿でウロウロしてみた。

バイクに乗ったユウザロックが通り過ぎる。30オーバーのかつてのB-BOYたちがそこには集まっていた。

みんなデブラージが大好きだった。デブラージからたくさんのギフトをもらった人々だった。

デブラージが亡くなったと聞いて、こんなことを思った。

もしもデブラージが頑固じゃなくて、Nippsがあんな人じゃなかったら、ブッタブランドはブッタの休日の後にも、もっと沢山の曲を残して違う未来が待っていたかもしれないと。彼らのクオリティを考えると、その残した作品はやっぱり少ない。

だが、かつて手塚治虫の息子が「未発表の手塚作品は無いですか?」と記者に聞かれたときに「手塚はすでにたくさんの作品があります。もう一度それらを読み直してください」と言ったように、その生まれなかった作品を望むよりも、1回でも多くブッタブランドの曲を聴き直すべきだろう。

そこにはデブラージの普通じゃない並はずれた「グッドミュージック」が忽然と姿を現すはずだ。

最後にデブラージが、2008年の年末にブログに書いた文章を紹介して、この記事を締めたいと思う。

人生とは・・・

川上から川下に流れる川だと思う。
流れに身を任すも良し、
逆らい独特の漕ぎ方をして進むも良し。

傾斜の激しい流域も有れば穏やかな流れも有る。
休み休み行くも良し。
ただある程度決まった流れを、
自力の手法でどう漕ぎ切るか?
最後の瞬間を見届けるか?
と言う部分が大事で、そこまでが1人1人が自ら選んで始めた
人間ゲームの終着点なんだと思う。

強く俺はそう思う。

だから俺は漕ぐ。
漕ぎ続ける。

自ら選んだこの人生の最終回まで進み、
その結果をしかと見届け、魂に記憶させようと…

そしてまたその先を視たい。
創り出したい。

自らが納得出来る、全ての肉体を持って
体験出来る事柄がクリアーになるまで…

輪廻転生し続ける。

俺はカルマがどうこう言う前に自ら生き抜き、学び、
その毎度の生を受ける設定の中で

最大限の人間体験を時代から時代に繰り返している。

それを強く望んでいる。
望んでいたから過去が有って、この今の現実が有る。
だからまだまだ満足出来ない。

見るもの、感じること、分かち合うこと…
様々なことが山積みだからだ。

だから漕ぎ続ける。

俺の意志で。

人が皆同じ様に…

俺達がボムだってことはhush hush tipだぜ…

D.L年表
1969年 0歳 11月24日東京都渋谷区代々木で生まれる。
1978年 9歳 小学校4年生 親の転勤に伴いニューヨークに引っ越す
1982年 11歳 この年からレコードを掘り始める
1984年 15歳 中学卒業後、ニューヨークから帰国する
1984年 15歳 日本の高校に入学
1987年 18歳 日本の高校を卒業
1988年 19歳 再び渡米、ファンキースライススタジオでインターンを始める(92年まで週に何度か)。DJ MASTERKEY、CQ、NIPPSと出会い、「うわさのちゃんねる」を結成。
1990年 21歳 グループ名をBUDDHA BRANDに改名し、本格的に活動開始
1992年 23歳 それまで曲作りを担当していたが、NippsとCQを見て自らラップを書き始める。一時帰国し、キミドリのクボタタケシ、石黒景太と会う
1995年 26歳 日本に帰国し、LAMP EYEの「証言」に参加
1996年 27歳 さんぴんCAMPに出演
1997年 28歳 「ブッタの休日」をリリース
1997年    雑誌FRONT4月号、DEV LARGEの連載でNIPPS離脱を正式発表。
1997年     トヨタ自動車のCMに出演し、11月には、そのタイアップシングル「天運我に有り(撃つ用意)」をリリース
1998年 29歳 レコードレーベル「EL DORADO RECORDS」を設立
2000年 31歳 『DON’T TEST MASTER』を発売
「病めるブッタの無限の世界~BEST OF THE BEST」を発売
2004年 34歳 KダブへのDIS曲「ULTIMATE LOVE SONG」を発表。Kダブが返したことで「ビーフ」に発展する。
2005年 35歳 1stインストアルバム『KUROFUNE 9000』を発売
2006年 36歳 シングル「盲目時代」を発売。「THE ALBUM (ADMONITIONS)」を発売。
2011年  41歳 2ndインストアルバム『OOPARTS(LOST 10 YEARS ブッダの遺産)』を発売
2013年 43歳 Maki The Magicの追悼パーティーを機にKダブと和解
2015年  45歳 5月4日早朝に死去
※本人のインタビューなどをもとに構成

 

 

聞いておくべき名曲5選(本人)

ブッタブランド 人間発電所

One Life

証言

D.L 鋼鉄のブラック

 

聞いておくべき名曲(ブッタブランド以外)

FUSION CORE「リーサルウェポン」

SOUL BROTHER / KAMINARI-KAZOKU. Feat. DEN, SICK KING

THE PROFESSIONAL ENTERTAINER(the living legend)(feat. NIPPS,DEV LARGE) / YOU THE ROCK★

おまけ
ジンロのCM

おまけ2 ライムスターの人間発電所

 

おまけ3 生前最後のラップ

隠れた名曲(ソロ)

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