いまヒップホップ界で、もっとも注目されている存在の一人なのが、ラッパーであり、稀代のトラックメイカー、プロデューサーでもあるPUNPEE(パンピー)だ。
ラップの有名な曲は数多くあるが、いまもっとも多くの人が聞いているラップのひとつが、TBSで放送されている「水曜日のダウンタウン」のオープニングのラップだろう。
そのラップとトラックを担当しているのが、PUNPEEである。
また、2017年1月に宇多田ヒカルの『光』が、全米iTunesチャートで日本人アーティストとして最高位となる第2位を記録した、と話題になった。
だが『光』は2002年に発売されたものであり、今回リリースされたものはPUNPEEがリミックスした楽曲『光 (Ray Of Hope MIX)』だった。
つまり、彼はリミックスという形で全米2位を獲っているのである。
東京の中でもイケてない地域である板橋区を代表し、「一般人」という意味の業界用語である「パンピー」を名乗るこの男。
なぜ七三でメガネなのか、なぜ「一般人」という名前なのか。そこには彼なりの狙いがある。
日本でヒップホップはだいぶ浸透したとはいえ、まだ「ヒップホップ聞いてるの?(笑)」というイメージが存在している。
聞いている側からすると「そうじゃない。聴かないのは、もったいない」と思うが、いつの間にか「不良の聞くもの」として定着してしまった。
そんなヒップホップのイメージに対して、いかにもなB-Boyの格好で登場して「俺のラップを聞け!」というパフォーマンスよりも、一般人の見た目でカッコよいラップをすることで、ヒーローになる。という思いから彼は「パンピー」というラッパーネームを名乗っているのである。
そして、それが成功すれば、ラッパーとしての成功に加えて、ヒップホップ=不良の音楽というイメージをぶっ壊すことができ、より多くの人にヒップホップの魅力を伝えることができるのだ。
だからこそ、あえてメガネ、あえて七三なのである。
水曜日のダウンタウンの歌詞にある「ヤンキーもパンピーもすべて見ろ」こそが彼の目指すヒップホップだと思う。
このいま一番多くの人にヒップホップを届けられる男の生涯を、インタビューと動画などを元にたどってみた。
文京区の下町・巣鴨で生まれる
PUNPEEは、昭和59(1984)年3月26日、巣鴨の一心病院で生まれる。血液型はAB型。
グリコ森永事件で世の中がお菓子の毒に怯えた年に、PUNPEE(高田兄弟の兄)は誕生した。
「おばあちゃんの原宿」で知られる巣鴨の地蔵通りのそばに住み、すくすくと育った高田少年に転機が訪れる。
1996年、10歳の時に家庭の事情で板橋区の団地に引っ越しをしたのだ。
文京区は東京大学もある教育レベルの高い治安の良いエリアであり、子育てしやすい街ランキングでも上位に入るところだ。
一方の板橋区は埼玉県との境目にあり、大きな荒川の土手があり、印刷所などの工場が多く、23区の中では地味なエリアであり、ヤンキーも多い。
小学校4年生の時に、文京区から板橋区に引っ越した高田少年。新しい土地でカルチャーショックを受ける。そんな時に遊び相手となったのが、後にPSGというグループで一緒に活動するs.l.a.c.k.(スラック、現5lack)だった。
僕も経験があるが、知らない土地に引っ越すと兄弟仲が深まる。小さい頃からお互いを知っている唯一の存在になるからだ。
ヤンキーの多い板橋への引っ越し、深まる兄弟の結束。それがのちのPUNPEEの誕生には大いに影響があったと思う。
不良の多い中学校で立ち位置を見つける
やがて小学校を卒業すると、PUNPEEは地元の中学校に入った。
中学校に入った彼は、当時好きだった「スラムダンク」のメガネの部員、小暮にシンパシーを感じてバスケ部に入るがきつくてすぐに辞めてしまった。
部活をやらない学園生活。しかも、そこは不良の多いことで有名な学校だった。
不良が多い環境では、どうしても強者と弱者に分けられる。
「いじめられっ子と仲が良かった」という弱者側にいたPUNPEEだが、当時、かなりの量のゲームをもっており「ゲームをいっぱい持っているやつ」として不良にも知られていた。
不良たちにプレステを貸しては壊されたりしながら、不良たちと良好な関係を築いていた彼は「まぁ、こいつはパンピー(不良じゃない一般人)だから」という扱いを受けていたことが、後のPUNPEEという名前につながったという。
そんなゲーム好きだった彼が同時にハマッたのが音楽とアメコミだった。
日本語ラップとの出合いはシャカゾンビだった
彼が音楽好きになったのは父親の影響が大きいという。父親はビートルズに加え、ソウルやレゲエも聴いており、家には幼いころから大量のレコードがあった。
父親が毎朝かけている音楽とコーヒーの匂いが混じり合った記憶が残ってて。子供のころは朝からレコードがかかっているのがイヤでしたね。針をずらして音止めて怒られたりしてた
という家庭環境で育ったため、小さいころから日常の中に常に音楽があった。
やがてビジュアル系バンドのサポートメンバーとなり、ステージにも立つようになる。
また、中学時代には、当時テレビでDJ KRUSH(クラッシュ)のプレイを見て、DJプレイに興味をもち、バンドにDJの音を取り入れようと、ターンテーブルを購入している。
そして、もうひとつ新しい音楽との出合いがあった。それが日本語ラップだった。
当時の彼は弟と一緒に近所の公園にスケボーをやりに行っていたが、そこで年上の人がかけていた音楽が、SHAKKAZOMBIE(シャカゾンビ)のアルバム『HERO THE S.Z.』だったのだ。
気になった二人はアルバムを購入。そこから少しずつ日本のヒップホップも聞くようになっていたという。
アメコミの作り込まれた世界観に魅了される
ヒップホップと出合ったPUNPEEだが、同時に彼の少年時代に大きな影響を与えたものがある。それがアメコミだった。
そのきっかけについて本人は「小学生とか中学生の時にX-Menがアニメでやったり、タートルズがやってたりしていた世代なんで、けっこう普通に見ていました」と当時の様子を振り返っている。
その後、原作であるコミックを読むようになり、1つの作品を2年半かけてつくるような作り込まれた世界にのめり込んでいく。
特に好きな一冊としてヒーローたちのその後を描いた名作「ウォッチメン」を挙げている。
そして、この「アメコミ的世界観」とヒップホップの融合こそが、のちにpunpeeの作品を語るうえでのキーワードとなっていく。
オーディションの日に寝坊してバンドをクビに・・・
やがて高校に入ったPUNPEEは軽音楽部に入部。「JUDY AND MARYのようなバンド」でベースとギターを担当していたが、オーディションの日に寝坊してクビになる。
その後は自宅で音楽をつくるようになるが、真っ白なキャンバスを目の前にした画家のように、いざ音楽をつくる段階になると「どんな音楽をつくったらいいのかわからなかった」という。
そんな時に参考になったのが、Beck(ベック)の「Midnite Vultures(ミッドナイトヴォルチャー)」だった。
そのサンプリングと演奏を混ぜたスタイルに刺激を受け、かつてベースとギターをやっていた経験を活かしながら自宅で音作りを始める。
当初はインストを中心につくっていたが、次第に弟と二人でラップを入れたMDを制作。
そして、高2~3ぐらいの時に、「ヒップホップを聞いている同級生がいる」と後にPSGでグループを組む、GAPPER (ガッパー)と出会った。
こうして少しずつ現在に繋がる「自宅で音楽制作」「PSGのメンバーとの出会い」「演奏とサンプリングを混ぜる」という要素が見えてくる。
やがて高校を卒業したPUNPEEは大学に進学するが、1年で退学。その後、2002年に板橋録音クラブ(IRC)を弟とGAPPER、また現在は辞めてしまったほかの2名とともに結成し、バックDJ、トラックメイカーとして活動を開始する。
UMBの東京大会で優勝を果たす
大学を辞めフリーターとなった彼は、板橋区蓮根のビデオLINKでバイトをし、大量に映画を見る生活を送る。
また音楽の方ではヒップホップに限らずにさまざまなジャンルを聞き、音楽活動を行っていた。だが、当時はギャラをもらうのではなく、ノルマを払ってステージに上がり、ライブを行う日々だった。
気付けば2002年にIRCを結成してから3年の月日が経っていた。
相変わらずノルマを払ってライブをやる先が見えない状況。コールセンターなどで働きながら、生活するPUNPEE。
現状維持のまま音楽を続けるメンバー。それが変わるきっかけになればと、彼はフリースタイルバトルへの出場を決意する。
2002年前後のバトルの状況を振り返ると、まず1999~2001年まで当時の日本一を決める大会だったB-BOY-PARKでKREVA(クレバ)が3連覇を果たす。「KREVAの時代」だ。
その翌年にMSCの漢が優勝するが、2003年にはバトルの審査を巡ってトラブルが勃発。その結果、翌年は縮小傾向となるが、2005年は会場を両国国技館に移して再開。
この大会は僕も現場で見ていたが、晋平太とCOMA-CHIが激しく争っていた。また、当時はカルデラビスタが圧倒的に上手いと思ったのを覚えている。
その一方で、2005年からULTIMATE MC BATTLE(UMB)がLibra Recordsの主催で開催され、出場者の面子からこちらの大会が事実上の日本一決定戦となっていく。
そんな時代にPUNPEEはバトルに出たのだ。初めてのバトルは池袋のクラブbed(よくNippsが入口にいた)で行われた。
結果は「1試合目で緊張しすぎて腰が抜けてしまって、2回戦で負けてしまった」という残念なものだったが、2006年、22歳の時にはUMBに出場。強敵、KEN THE 390に勝利し、東京大会で優勝する。
そして2007年にはPUNPEE、S.L.A.C.K.、GAPPERのそれぞれの頭文字をとった「PSG」を結成。
2009年には世界的なサンプラーメーカーAKAIが主催する「AKAI PROFESSIONAL PRESENTS SAMPLER BATTLE GOLDFINGER’s KITCHEN 2009」に出場し、圧倒的なパフォーマンスを披露。優勝の栄冠を手にする。
さらに、2009年には「PSG」としてデビューアルバム『David』を発表。これがジブラやクレバなどの現役のラッパー、専門誌から高い評価を受ける。
アルバムから1曲↓
また、この頃の板橋ど真ん中時代の映像も残されている。
いまのクオリティを考えると信じられない話だが、当時のヒップホップ専門誌『blast』にデモを送っても通らない日々が続いたというPUNPEE。
だが、この辺りから快進撃が始まる。ようやく彼のセンスとスキルが時代と噛み合ってきたのだ。
板橋録音クラブを結成したのが2002年。PSGとしてデビューしたのが2009年。ここまで7年の月日が経っている。
フジロックフェスティバル2017で発売された1 track CDのリリックでは
「空白の時期は 食う 寝る 引きこもり」とラップしている。
普通なら辞めたいと思うし、親からも辞めろと言われただろう。
インタビューで「保険の営業をやっていた」と語っているが、それはこの時期だろうと思う。
そんなくすぶっていた期間こそが、その後の活躍にとって大切な時間だったと思う。
まずPUNPEEを一言でいうと「センスが良い」となる。
では「センス」とは何か?それは「膨大なデータベースから適切なものを選びとる力」だと思う。
つまり、前提として必要になるのが膨大なデータベースなのだ。
そう考えた時、PUNPEEが下積み時代に見ていた膨大な映画、音楽はすべて彼の血肉となっていったのだ。
もちろん、時間をかけて積み重ねれば全ての人が成功を手にするわけではない。
ただ、後にあれだけの名曲を生みだせた理由を「天才」や「センスが良いから」という一言で片づけてはいけないと思う。
すごい人を天才と呼ぶのは簡単だが、それでは思考停止につながる。なぜ彼がすごいのか、それは「空白の時期」にストックしたデータベースとトライ&エラーの積み重ねこそが、生きていると思う。
それを感じさせるのが、彼の特徴の一つである過去の作品からのオマージュである。
それは日本のヒップホップレジェントである、ライムスターやKダブシャインなどのリリックの引用にあったりする。
例えば「水曜日のダウンタウン」のラップであれば、かつてダウンタウンが歌った曲「エキセントリック少年ボーイ」からの引用でもある。
分かっている人からすれば「お、これを持ってきたか」となるし、知らない人は普通にかっこいい、という2つの聞き方ができるのだ。
これらを可能にするのは膨大なデータベースがあるからであり、それを実現できたのは板橋区のビデオ店での「次の客が来るまで1時間ぐらい空く、ひたすらヒマな時間」のような時間の集積だろう。
よくPUNPEEのリリックで「ヒマ人」という言葉が出てくる。通常はネガティブな意味でとらえがちだが、彼はこのヒマの効用をよく理解しており、「エジソンもアインシュタインもヒマ過ぎてイマジン」というように「ヒマだったあの頃の時間」こそが彼の発想の源泉になっているのだ。
つまり、積み重ねた量が質に変わったのがこの時期だったのだ。
枚数限定CDが即完売
2009年に「PSG」のデビューアルバム『David』によって注目を集めた彼らは、2010年にタワーレコードでインストアイベントを行うと、大勢の人が詰めかけた。
本人はその状況を「なんか知らないところでファンが増えてるんだなぁ」と思っていたが、着実にファンは増えていった。
また、個人の音源としてはライブ会場などで限定でいくつかのMIX CDを発表した。2010年には、関係者向けのMIX CD『Mixed Bizness』を1000枚限定で発表、即完売。
2011年には2nd MIX CD『BIRTHDAY BASH MIX』を発表。さらに2012年には3rd MIX CD『MOVIE ON THE SUNDAY』をディスク・ユニオンで2000枚限定で発売、こちらも即完売しており、現在オークション価格2~3万円で取引されている。
こうして枚数限定CDの価値が上がる一方で、それをレコード会社から再発売するつもりはないという。
その意図について彼は
なんか自分はそういう売り方が好きなんですよね。ビースティ・ボーイズがライヴ会場で、シングル・カットしていない曲のインストだけを毎回レコードにして売ってるのとか、すげぇ粋だなって思ってましたし。そういうのが好きっすね。リスナーを振り回したりして、リスナーはたぶん迷惑してるんすけど、数百枚しか発売されない盤を手に入れたら、真剣に聴くと思うんですよ
と語っている。
さらにこの年には、彼らの才能を業界の中でいち早く評価した元サニーデイ・サービスの曽我部恵一さんとの楽曲「サマーシンフォニー」が2010年8月に生まれている。
TVCMやテレビ番組の仕事も増えていく
2010年に火が付いたPUNPEEの評価はさらに高まっていく。
楽曲提供、プロデュースの依頼が増えていったのだ。
その中には、般若、ライムスター、ブルーハーブのBOSSといった第一線で活躍する人からのオファーがあった。
特に2012年9月にディスクユニオン限定で発表した『Movie On The Sunday』の影響は大きく、
ここで名曲『Renaissance』も発表されている。
レッドブルのTVCMの日本代表に選ばれる
2014年、PUNPEEの元に「レッドブル」のテレビCMのオファーが届く。そして「ナポレオン編 日本版」のラップを担当することになった。
さらに、同年にはプロデューサーが彼のファンだったことから『水曜日のダウンタウン』 のオープニングのラップとトラックを担当することになった。
この経緯についてPUNPEEは「代官山で知り合った藤井さんという人とバーカウンターにいたら『俺、テレビ番組作ってるんだけど、音楽やってくれない?』と言われた」とあくまで知り合いがたまたま声をかけてきた、とインタビューで語っている。
しかし、プロデューサーの藤井さんは自著『悪意とこだわりの演出術』の中で違うことを言っている。
藤井さんは自らを「16歳のとき『さんぴんCAMP』には行けなかったけど、年末の『鬼だまり』には行けました」というヘッズであることを語ったうえで、「『水曜日のダウンタウン』のメインとなるいくつの楽曲はPUNPEEというヒップホップアーティストに作ってもらいました。僕が彼のファンであったことはもちろん、番組内の楽曲に一貫性を持たせられるのでオファーしました」と語っている。
つまり、藤井さんは最初からPUNPEEのファンであり、『水曜日のダウンタウン』のスタートに合わせてオファーしていたのである。そのオファーの背景にあったのは、youtube上にあった彼のクオリティの高い楽曲だった。
大ファンの宇多田ヒカルに認められる
PUNPEEを語るうえで欠かせないのが、宇多田ヒカルとの関係だろう。冒頭で書いたように、彼がリミックスした宇多田ヒカルの曲が全米2位になっている。
その関係性のきっかけは、PUNPEEが2014年の12月4日にインターネット放送局の「DOMMUNE(ドミューン)」で 「宇多田ヒカルのうた」というタイトルでリミックスを放送したことが発端となっている。
彼はそこでDJをやりながら「本人が見てるわけないけど、見てることを想像して汗が止まらない」と言っていたが、これが宇多田ヒカルの関係者の目に止まり、2016年12月には宇多田ヒカルが出演するネットイベント「30代はほどほど。」で宇多田ヒカル本人の前でDJプレイをすることになる。
この流れについては本人は「DJ YANATAKEさんという、昔から宇多田さんをクラブミュージック方面からサポートしている方がいるんですけど、俺がファンだと公言してるのをその人が聞いてねじ込んでくれたんです」と語っている。
とはいえ、ファンなら誰でも出られるわけではない。ここでも「DOMMUNE」における極上のDJプレイがあっての出演決定だった。
そして、このファンとして行った活動が2017年1月、全米2位になった「光 (Ray Of Hope MIX)」として結実するのである。
加山雄三とも共演を果たす
宇多田ヒカルと全米2位を獲得する一方で、もうひとつ注目すべきプロジェクトがある。それが2015年に発表された加山雄三の「お嫁においで」をリミックスした「お嫁においで2015」である。
この企画は、カレー屋まーくん(DJとしても活動)という人物が加山雄三のマネージャーと知り合いであり、ふと彼が加山雄三のリミックスを作ったら面白い、と思いつき、声をかけたのが以前にイベントで一緒になったPUNPEEだった。
PUNPEEは自分みたいなダメなラッパーが嫁に来ないか、と言ったら?と想像して等身大の自分を投影したラップを作り上げ、見事に過去の名作をリメイクし、さらにPVでは加山雄三本人とも共演を果たしている。
こちらは発売と同時に高い評価を受け、アナログ盤には一時はプレミアが付くほどの人気となった。
これからのPUNPEE
彼の状況を見ていると、ブレイクしてもっと多くの人に知られるのは時間の問題とも言える。
そんな彼にいま求められているのが、時代を代表するような楽曲を生みだすことである。
すでに多くの名曲は生み出した。しかし、いまだにラップと言えば、「今夜がブギーバック」や「俺は東京生まれ、ヒップホップ育ち」で止まっている人たちに対して、
それを超える、純粋にグッドミュージックとしてのヒップホップを届けられるのがPUNPEEだと思う。
「天才」とは何か? 僕は「その人が登場する前と後ですべての価値感が変わってしまう存在」だと思っている。
2017年10月4日にようやくアルバムを発売したPUNPEE。
「自由」なはずのヒップホップという音楽が、ちょっとテレビに出ればセルアウトと言われたり、韻を踏んでいるか、いないかで評価が分かれたりする、不自由な状況にとらわれているなかで、それらの枠組みを超越したPUNPEEの音楽が多くの人に受け入れられる日は遠くないだろう。
そして、彼の音楽が多くの人に届いたとき、日本のヒップホップはまた新たな地平へと歩み出せることになるだろう。
記事の中に登場しなかったけどおすすめの曲ベスト5
1989年生まれのトラックメーカー「STUTS」の作品にラッパーとして参加した2016年の曲。「太極拳のじじいがむっくり起きるその前に」という言葉が耳に残る一曲。そして名曲。あとおじさんになったPUNPEE役の人はお父さん。
名作『花と雨』によってヒップホップ界で独自の地位を築いたSEEDA。彼とPUNPEEが楽しそうに演技しているPVが印象。演技はダメだけど味がある。この曲の元ネタは確かシャカゾンビも使っていたと思う。
テーマは大したこと歌ってないんだけど、本当に良い曲。ここでもワードと言い方が面白いのがけっこうある。フローとは違う「進化かてーいでの」とか。一番クセになる曲。
これも名曲だと思う。
最近一番好きな曲。こちらは最後の方にラップしている。「あー宇宙人さん」って宇宙人に呼びかけてる。
【参考文献、インタビュー】
街ものがたり
PUNPEEのもっと詳しいインタビューが載っている。
クイックジャパンvol.126
過去、現在を語りながら、これからヒップホップが生き残る道を語っている。
『悪意とこだわりの演出術』藤井健太郎
PUNPEEのことが出てくるのは少しだが、ヒップホップ的な番組作りの話とか面白い。
パンピー好きなら読まなきゃなアメコミ
PSGのアルバム。こちらも名曲が多い。
BEAT SCIENTISTS 〜HIP HOPのおとづくり〜 VOL.1 feat. PUNPEE
音楽的な背景から音作りの話をけっこうしている。
miyearnZZ Labo「PUNPEEとRHYMESTER『Bitter, Sweet & Beautiful』制作を語る」
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