きなこなん式

フリースタイルで人気のラッパーR-指定の原点をたどる

日本のヒップホップ界で、最注目人物の一人、R-指定。フリースタイルバトルのテレビ番組「フリースタイルダンジョン」で圧倒的な強さを発揮し、ジブラが「R先生」と呼ぶ( やや冗談の混じった口調ではあるが)ラッパーだ。

ラップバトルを解説する時のその丁寧な語り口からは知性がにじみ出る。だが、その一方でライブでは、合間のトークで童貞について熱く語り、自分がイケてない感じを前面に出してくる、不思議な存在だ。

彼を見ていると「ルサンチマン」という言葉を思い出す。

「ルサンチマン」とは、哲学者ニーチェの用語で、強者に対して仕返しを欲して鬱結した弱者の心、という意味だ。

王者としての圧倒的なスキルがありながら、スクールヒエラルキーの下層にいた怒りがいまだに同居している彼は 「ルサンチマン」を原動力に、 ヒップホップ=不良の音楽というイメージを変える存在になるかもしれない。

自らの過去を「何してもダメだった少年」と語る彼が、どうやってヒップホップと出合い、いまの強さを身に付けたのか。

彼のインタビュー記事などを元に、その原点を探ってみた。

劣等感を抱えた少年時代

R-指定は平成3(1991)年9月10日、大阪府堺市でひとりっ子として生まれた。

1991年といえば、若貴ブームがあって、ターミネーター2が公開され、『Santa Fe』で宮沢りえがヌードになり、ジュリアナ東京がオープンした、ずいぶんと賑やかな年だ。

R-指定の本名は非公開となっている。ただ、以前、 Creepy Nutsでコンビを組む、DJ松永が、R-指定が送った画像をそのままツイッターに乗せて「本名、本名出てる!」となったことがあるという。

以前、テレビ番組で、なぜラップが上手くなったのか、という質問に対して「家族がよくしゃべるから」と語っていたように、一人っ子ではあったが賑やかな家庭で育ったようだ。

実家は貧乏でも金持ちでもない環境だったが、「田舎で家の周りに友達もあまりいない」場所だったという。そのため、幼いころは一人で遊ぶことが多く、絵を描いたり、マンガのキャラクターを自分で考えたりするなど、インドアな遊びが好きだったという。

「草野球のチームにも入らなかったから、ずっとひとりで遊んでました。遊び方とか、流行ってるゲームとかも知らなかったし、頭も良かったわけでもないし、スポーツもすごい苦手だった」

と少年時代を語るR-指定。

学校のヒーローといえば、スポーツが上手いか、勉強ができるか、物知りでおしゃべり上手か、その辺に人気は集中する。

そのどれでも無い彼は

コイツらと何の差があるんやろ? コイツらはゲームを買ってもらえて、ちょっとスポーツが上手いってだけなのに、なんでこんなに差を感じてしまうんやろ?

と言葉にならない劣等感を抱えながら少年時代を過ごした。

ライムスターに心酔した中学時代

ヒップホップとの 出合い は、中学1年生の時だった。それ以前は、 中2のセンスとしてはやや渋い、桑田佳祐や中島みゆきをよく聞いていたという。

ちなみに、彼が中1の時は2004年。当時のヒット曲は平井堅の「瞳をとじて」、SMAPの「世界に一つだけの花」、ORANGE RANGEの「花」「ロコモーション」、ケツメイシの「涙」などが流行した年だ。

初めてヒップホップを聞いたのは、ラジオから流れてきたSOUL’d OUTだった。 SOUL’d OUTは、1999~2014年まで活動をしていた、2MC+1トラックメイカーのグループで、2003年にm-floのVERBALのスカウトによりメジャーデビューしている。

ヒップホップという音楽に出合った彼は、ラップに興味をもち、ジブラや雷、般若、ライムスターなどのCDをレンタルショップで借りて聞くようになる。

登下校時にイヤホンでいかついラップを聞く中学生時代のR-指定。だが、その一方で不良ではない自分とのギャップを感じていた。

その中で特別な存在となったのがライムスターだった。ジブラ、雷のハードコアなスタイルに対して、文化系だけど口げんかだけは強い、ライムスターのスタンスに感銘を受けたという。

俺は、ホンマにRHYMESTERの影響はデカイと思いますね。宇多丸師匠の思想とかは、自分の人格が形成されていくうえですごいデカかったと思います。思春期にRHYMESTERをすごい溜飲が下がる思いで聴いてたというか

と熱く語る。

特にアルバム『グレーゾーン』が特別だったという。そう思って、グレーゾーンを聞き直してみると、 ザ・グレート・アマチュアリズムの宇多丸のバースにいきあたる。

チキショウ!
持ってる奴に持ってない奴が
たまには勝つと思ってたい奴
値段もロゴもドデカいシャツは着ないで
ラクしてモテたい奴に朗報!
願ってもないチャンス
ブサイク・音痴だって歌えちゃう
スッゲー敷居低い歌唱法
ちょうど俺が生きた証拠

きっとこれこそが「取り柄と言えるモノがなかったし、人並みに出来ることがホンマになかったんです」という少年にとって、救いの光のような一節だったのだろう。

中学2年生からリリックを書くようになるが、当時はまだカラオケでラップする程度だったという。

『8 MILE』 でバトルを知る

R-指定がヒップホップに出合った頃、実は日本のヒップホップシーンは冬の時代に入ろうとしていた(もう何度目の冬だろう)。2004年といえば、雷が復活した一方で、ヒップホップ界にとっては次世代のスターと目されていたトコナXが急死した年でもある。デブラージとKダブがビーフをしたのもちょうどこの頃だ。

中2でリリックを書き始めた彼とバトルとの出合いは、エミネムが主演した映画『8 MILE』だった。

その映画を見た感想についてR-指定は「『うわっ、(ラップで)戦ってるやん!』って思って、そこから日本でもMCバトルがあるっていうのを知ったんですよね」と語っている。

日本でのMCバトルの歴史は、1999年のB-BOY Parkから始まる。当時の王者は、KICK THE CAN CREWのKREVAだった。彼が1999~2001年まで三連覇を達成する。

こうしてB-BOY Parkこそが日本一を決める大会だった時代が続いたが、2003年、判定についてのゴタゴタがあり、大会自体もグダグダになり、翌年から審査員になりたくない人が続出。システムの限界を露呈してしまう。

翌年の2004年には B-BOY ParkでMCバトルが開催されなくなってしまったが、大会運営のゴタゴタで敗退した漢が中心になって始めたイベントが「お黙り!ラップ道場」だった。

これが好評だったこともあり、その発展形として2005年からUMB(ULTIMATE MC BATTLE)を開催。全国で予選を行うことで、MCバトル熱が日本全国に広まっていく。

当時、まだ中学生だったR-指定はただの一ファンだった。

『ULTIMATE MC BATTLE』のHIDADDY対FORK(2006年)を観て『ヤベェ!』ってなったんです。だけど、最初の2年間ぐらいはまったく出来なかったですね。本格的にフリースタイルをやるようになったのは、梅田サイファーに行くようになってからです

リスナーだったR-指定をラッパーにした場所こそが梅田サイファーだった。

梅田サイファーで腕を磨く

サイファーが一般化したのは、いつ頃だろうか。ダメレコが出るライブで、ラップの後に「渋谷でサイファーやってます!」とPRする人が次第に増えていった印象だ。

サイファーとはラッパーが路上で集まる場所を決めて、オープンマイク形式で次々とラップをしていく集まりのこと。ラップに自信が無いと入ることすらできず、敷居は高いと言える。

R-指定が梅田のサイファーを知ったのは高校1年生の時だった。当時、一緒にラップをやっていた唯一の友達が「『梅田サイファー』という外で集まってラップしてる連中がおるらしい」と動画を見せてきたという。

そこには 不良のいかつい感じではない、普通の格好した人たちが輪になってラップする姿が映っていた。

「その時に『あ、こういう場所があるんや』って。誰でも参加できそうやったんで、2人で遊びに行ったら、すぐにみんなと仲良くなった」と当時を振り返る。

梅田のサイファーで衝撃を受けたのは、スキルよりも長さだったという。「みんな何時間もラップを延々しまくってて、それがまず衝撃で。そこに自分もついて行くためにとにかくラップして、自分から入り込んでいって。そうやって、地道に、出来へんかったことが、続けて行く中で徐々に出来るようになって」とまずは量、そして長くラップできる技術を独学で身につけていった。

また日常生活においても「何かを見たら、そこから韻だったり、続ける言葉がパッと出るように、色んな事で頭の中をごちゃごちゃにしといて、頭の中を柔らかくする」というトレーニング法を編み出し、日々の生活から変えていくようにした。

こうしてスキルを磨く一方で、梅田のサイファーの次のステップとして彼が参加したのが、MCバトルだった。2008年、高校2年生の時だった。

最初に出たのは、大阪アメリカ村にある、クラブJouleのMCバトルだった。結果は予選敗退だったが、当時のR-指定について、韻踏合組合のメンバーであり、現在は審査員として「フリースタイルダンジョン」にも出演しているエローンは「うまいなーと思ってた」と振り返る。

そして、R-指定は、その2ヵ月後に大阪で開催されたMCバトルENTERに初参戦する。

そこで戦ったのが、現在はフリースタイルダンジョンで同じモンスターとして戦う、MSCの漢a.k.a.GAMIだった。

まだバトルデビュー2ヵ月目だったが、 エローンの回想によると「先攻KANがいつもの調子でまくしたてる、それに対して後攻R-指定は『HIPHOPはRAP,DJ,DANCE,GRAFFITIの4個でできてんだ。ドラッグや女や暴力はHIPHOPじゃねーよ!』的な事を言って、KANを撃退してた」と語る。

ただ、エローンは当時この勝利を「ラッキーパンチが当たった」ぐらいに思っていたという(ちなみにこの後、エローンとR-指定が戦い、エローンが優勝している)。

しかし、それは誤りだった。この勝利は、R-指定の長いチャンピオンロードの始まりだったのだ。

コッペパンに加入

バトルで経験を積みがら、当時、高校生だったR-指定は毎週梅田のサイファーに参加してスキルを磨き続けていた。この梅田サイファーで会うメンバーの中にコペルがいた。コペルは、2009年のB-BOY PARK UNDER20 MCバトルに出場し、17歳で優勝するスキルの持ち主だった。

コペルはもともとペッペボムというラッパーとふたりで「コッペパン」というグループを作っていたが「もっと声の低いラッパーが欲しい」という話になり、当時、サイファーに来ていたR-指定をスカウトしたという。

さらにもうひとりのMCも参加して4人でやっていたが、天才的に上手かった二人が抜け、「あまり喋らない二人」である、R-指定とコペルが残ったという。

後に解散し、お互いソロになって、再び共演するようになるが、その時に「ソロになって仲良くなった」と語っているので、当時はそこまで仲が良かったわけではないのだろう。

「友達はみんなライバル」というブッダブランドのnippsの言葉があるように、まだ何者でも無かった彼らは、微妙な関係のうえに成り立っていたコンビだった。

前人未到の三連覇を達成

R-指定が、「ULTIMATE MC BATTLE 」で初めて大阪予選を優勝したのは、2010年の時だった。すでに10代にして、次々と強敵を撃破していたR-指定の名前は少しずつ知られるようになっていった。なお、この年の GRAND CHAMPION は晋平太だった。さらに 晋平太は翌2011年にも GRAND CHAMPIONになっている。

晋平太の三連覇がかかった2012年大会。 晋平太は敗れた。そして優勝したのは、当時、21歳のR-指定だった。さらにR-指定は 2013年、2014年で優勝を果たし、大会初の三連覇を達成する。

前人未到の三連覇を成し遂げたR-指定だが、精神状態はボロボロだったという。「審査員、観客全員が敵に見える」ようになり、プレッシャーにより、 大会後盲腸になったため、それ以降の大会には参加しないことを決める。

また、当時の状況を振り返って「あんときはほんま、カイジみたいな生活というか、プラプラしながらUMBの賞金を頼りに生きていたので、年末の一発に賭けてました」と語るように、金銭面でもギリギリの生活だった。

MCバトルの次に彼が取り組んだのが、 ソロデビューアルバムの制作だった。2014年、『セカンドオピニオン』を発表。次の一手を模索する中で、ジブラから連絡が入る。

『フリースタイルダンジョン』のモンスターとしての出演の打診だった。最初は断ろうと思ったが、迷った末に受けることを決意。2015年9月『フリースタイルダンジョン』のモンスターとなる。

だが、ソロとして活動を開始したR-指定だったが、やや病んでいた頃もあり、ライブで滑りまくっていたらしい。そこで2012年から知り合いになっていたDJ松永が一緒にやらないか?と声をかけて、 Creepy Nutsを結成。2016年に「Creepy Nuts」として『たりないふたり』をリリースしている。

劣等感や怒りがエネルギーになる

村上龍の名作『愛と幻想のファシズム』の中で「特別な才能を持っている人間は、何かを持っているんじゃない、何かが欠けているんだ」という意味の言葉があるが、R-指定にとって、それは少年時代に抱いた強烈な劣等感だったのだろう。

自分は「やれる、すごい人間だ」という気持ちと、学校でのイケてない自分という現実とのギャップ。「俺はいちばん下の下から『俺がいちばん上や!』って叫び続けていたいタイプなんです 」と語る彼は自ら語るべきテーマやバックボーンは無いと話す一方で、「根幹にある『劣等感』みたいな気持ちは変わらないなって。その感情をバトルの時みたいに攻撃に使う時もあれば、哀愁に結びつけたり、自虐だったり、笑いっていう風に、自分の中の劣等感を、色んな形で表現してると思うんですね」とインタビューで語っている。

ラッパーにとって生い立ちというのは非常に大きな要素である。アナーキーが「団地」「路地裏」「公園」とラップし、SHINGO★西成が覚せい剤が日常に存在している、西成の日々をラップする中で、R-指定にはそこまでの重いバックボーンは無い。

それは本人も自覚している。

強烈なアティテュード(姿勢・意見)やバックボーンがある人は、その人が何かを歌うだけでそういうモノが絡んでくるじゃないですか。でも、俺にはそれがないから基本的にいろんなテーマを扱う

と自らの立ち位置を語っている。

ただ、これからラッパーを目指す若い人にとって、どちらが目指しやすいモデルかと言えば、R-指定の方だろう。

「取り柄と言えるモノがなかったし、人並みに出来ることがホンマになかったんです。ラップをして初めてみんなが反応してくれた。『お前、上手いんちゃう?』『お前、なかなかやるやん』って言われたのが、生きてきてラップが初めてだったんです。だから、この思いはホンマに切実ですね」

と語るR-指定。

ヒップホップとは本来「希望を失った若者」の音楽である。

それならばR-指定の学生時代にイケてなかったというのも十分、その資格があるといえるだろう。

ヒップホップ界ではすっかり注目の存在となったが、その枠組みを超えて音源でのヒットという大きな旗を立てた時、日本人ラッパーのイメージはまた一つ更新されるだろう。

そう考えると、この記事を書くのは少し早すぎたように思う。

なぜならR-指定の伝説は、まだ始まったばかりだからだ。

ソロアルバム『セカンドオピニオン』
自伝的ラップ「イマジン」は名曲だと思う。