プロローグ
ある時期、緒川たまきは特別な存在だった。
1995年から1997年ごろの話だ。
ネットで「完璧人間、緒川たまき」というフレーズを目にしたことがある。
カメラ、文学が好きで、映画に加え、変わった音楽が好きだったりする、そしてちょっと天然で猫が好き。確かに完璧だ。
彼女の出演したものはどれも良いが、特に今でも伝説となっているのが、1995年から1996年に放送されたNHKの番組「ソリトンSide-B」だろう。
わずか1年の放送であるが、レコードのB面特集というまるでタモリ倶楽部みたいな企画をやったかと思えば、新人時代の京極夏彦やYMO、さらにはスチャダラパーとビッケをゲストにラップブームを語ったりと当時の最先端を感じさせる内容が満載だった。
司会の高野寛さんが緊張しがちな人で、そのぎこちない感じをほぐすように「癒し」を与えてくれたのが、進行役の緒川たまきという存在だった。
あれから20年以上の月日が過ぎた。伝説は過ぎ去ったように思った。
だが、昨年(2017年)、ぼくの中で2つの出来事があった。
一つは彼女が鈴木慶一さんのラジオでかけた選曲があまりにすごかったので、まとめた記事を書いたところ、かなりバズったこと。
そこでわかったのは緒川たまき、という存在はやはり特別なものとして多くの人の中に残っているという事実。そして、何よりその選曲の凄さに驚いた。
それは音楽を生業にしている人ですら「2、3人しか分からない」という奇妙な音楽が満載だった。
さらに昨年(2017年)、ある出版イベントで彼女のトークを生で聞く機会に恵まれた。
猫というテーマだったせいか、まさに緒川たまきワールド炸裂で本人も「次は合宿ですね」と言い出すぐらいしゃべりまくり、「なんなんだ、この人は。これはテレビサイズでは扱えないのでは?」と思うほどだった。
やがて一つの結論に至った。やっぱりこの人すごい! 過去形ではない、現在進行形で、すごい人なのだ。
そして、そのあまりに「オリジナル」な存在を前に、どうやったらこんな人ができるんだろう、という疑問が浮かんだ。
それを解き明かすにはやはりその足跡を辿る必要があると思う。
そこで今回は彼女がその生い立ちを語った『H』の1996年5月増刊号のインタビューや2017年のトークショーで語ったことなどを元に彼女の半生についてまとめてみたいと思う。
のちに緒川たまきとなる、佐川典子が生まれたのは1972年2月11日、山口県徳山市(現在の周南市)という瀬戸内海に面した町だった。
彼女の一家は父親の仕事の関係で驚くほど引っ越しをしている。ざっとまとめてみる。
・生まれて1年もしないうちに両親の出身地である、島根県の松江に引っ越す。
・小学校に上がる少し前に東京の練馬区に引っ越し。ここで小学校5年生まで過ごす。
・5年生で広島県広島市に引っ越す。
・中学入学のタイミングで広島の福山市に引っ越し、ここで高校卒業まで過ごす。
・高校卒業後に18歳で上京する。
ということで、生まれてから上京するまでに、山口→島根→東京→広島県広島市→広島県福山市と5回引っ越している。
当然、その度に出会いと別れを繰り返し、引っ越しは「もう毎回泣いてました」という悲しい記憶となる。
しかし、その一方で前に住んでいた土地のことを「よその世界のことのように本当に過去になってしまうんですよ。思い出してもすっぽり箱にハマってしまったような感じで。だから引っ越しが好きとは言えないけれども、でもなんとな~くおもしろいとは思いました」と振り返っている。
この引っ越しの多さが彼女の人格にどのような影響を与えたかは分からない。
ただ、なんとなく思うのは、彼女の特徴である「自分の好きなものをとにかく溺愛する」という性格は、引っ越しによって、友達がいなくなり、馴染みの風景がなくなる中で、どこに行ってもいなくならない「自分の好きなものを大事にする」という結果から、育まれたのかもしれない。
そして、もう一つ緒川たまきと言えばカメラであるが、彼女がカメラを始めた理由は、引っ越しと関係がある。
幼い頃に「110カメラ」というおもちゃのようなカメラをもらった彼女は、いくつかの写真を撮り、やがて新たな土地へと向かった。写真を撮った時はなんとも思ってなかったが、後日写真を現像した時、そこには引っ越し前の日常だった風景が残されていた。
「すごく懐かしくて。同時に、二度と行けない場所が写っているというが辛くて。こんなおもちゃみたいなものでもこういった経験ができるんだと、カメラがとても愛おしい道具になったんです」という体験を通して、彼女の中でカメラが特別な存在となっていく。
この辺りの趣味の話をする前にもう少し幼少期の日常に触れてみたい。
ようやく歩けるようになったころ、彼女は両親の故郷である、島根県の松江に住んでいた。
彼女の家には1つ上の兄がいた。多くの兄弟がそうであるように、彼女の遊びは兄とその友達の遊びにくっついていくことから始まった。
当時の家の前には小川が流れ、祖母の家の庭先がいつもの遊び場だった。
その頃の思い出について松江の雑誌のインタビューでは「一つ違いの兄や幼なじみの友だちと、かくれんぼをして遊びながら、毎日少しずつ自分達の遊び場所を増やしていった楽しさなどは、夢に現われたほどでした」と振り返っている。
また彼女はトークショーで自分の実家について「母親が猫が好きだったので飼い猫がいて、それに加えて野良猫も集まってくるような家庭で育った」と語っていた。いつの時代か明確には言わなかったが、野良猫におおらかな感じから東京よりも松江時代のように思える。
そう、彼女の側には幼い頃から「自由に過ごす」先輩である猫がいたのだ。
小川があって、猫と過ごし、兄たちとかくれんぼをしていた生活が一変する。小学校入学直前に東京へと引っ越すことになったのだ。これは彼女の記憶に残る最初の引っ越しだった。
彼女が移り住んだ東京の練馬区は「練馬大根」で知られるように、東京23区の中でも畑が多く、自然がかなり残っているエリアだった。
彼女の過去の話に小学校時代に渋谷や新宿、またアクセス的には近いはずの池袋に行った話は出てこない。
では彼女はどこにいたのか? それは森と丘だった。
彼女は幼少期の自分の性格について「好き嫌いの激しい子どもでしたね」と振り返っている。
その嫌いなものの一つに女子特有の団体行動があった。
いつも連れ立って動くのが嫌だった彼女は「とにかく森や丘に行けば確実に一人になれる」ことを発見する。
そして森や丘、ときには小川で綺麗な石を探しながら日が沈むまで遊んでいたという。
また、東京に行って始めたことの一つにクラシックバレエがあった。
幼い頃から母親と一緒にバレエをテレビで見ていた彼女は「バレエ」という名前も知らないまま、身振り手振りで母親に踊りが習いたいことを伝えた。
すると、母親が連れて行ったのは日本舞踊の教室だった。
「違う!これではない、とすごい怒って」
ようやくバレエ教室にたどり着き、習い始めたという。
このバレエという要素が緒川たまきに与えた影響は大きいと思う。彼女のトークショーに行って驚いたのは、そのスラリとした身長と美しい立ち姿だった。背の高い女性は大勢いるが、立っているだけであれだけ絵になる人はそうそういない。
それはきっと4歳から始めたバレエのおかげであり、それがなければ現在のような仕事をしていなかったかもしれない。
同時にこの頃、本にも出合っている。きっかけとなったのは母親が小学校1年生ごろに買い与えた『王女様になるために』(今この本をアマゾンなどで検索しても出てこない)という童話だった。
「そのお話がもう、もうすごくいいんですよ、本当にいいんです。子供っぽい内容じゃないんですよ。決して絵も幼稚じゃないし。だから高校生になってもずうっと持ってました」と語っている。
内容はわからないが、かつてデザイナーになりたくて家出をしたこともある、という母親は、娘の中にある「お姫様願望」を目覚めさせるような一冊を小学校に入った頃の彼女に与えたのだ。
バレエを習い、本を読み、森に行って小川で綺麗な石を探す日々を送る少女。もうだいぶ「緒川たまき」要素が揃ってきた気がする。
そして、同時に思うのは、緒川たまきの独特のおっとりした、のんびりした感じは、この森や丘で「日が暮れるまでの光の具合とかそういうことを見ているのがすごく好き」だった、その時間が今も彼女の中に残っているのではないだろうか。
そして、彼女は小学5年生で広島県広島市に引っ越しをする。
東京から広島へと引っ越した彼女を待っていたのは方言だった。
とうぜん周りは全員広島弁、男が「ワシ」という環境に身を置くが、当初は複雑な広島弁が理解できず、「私もマセた子供だったので、ああ、こんな言葉は覚えたくない」と思って、高校を卒業するまで一回も方言を話さなかったという。
例外として教室で下級生同士が喧嘩したのを止めるときに1度だけ広島弁を使ったと振り返っている。
この広島市での生活を経て、中学入学のタイミングで一家は広島県福山市に引っ越しをした。
このときに当時の福山市に気に入ったバレエ教室がなかったという理由で、バレエを辞め、かつて祖母の家の蔵で見たときから気になっていた、琴を習い始めている。
新天地となった福山での中学校時代について、彼女は「一番暗かった」と振り返っている。
当時の日常は「花言葉ばっかり覚えて、花を摘んできてはドライフラワーにしたり押し花にしたりしていた」という。確かに暗い。
だが、客観的に見たらどうだろう。
広島弁を話さず、標準語を話し、女子と群れずに花言葉を覚える中学生。なんだか不思議ちゃんな感じで良いが、実際に同じクラスにいたら、ちょっと近寄りがたい、変わった女の子な気もする。
しかし、この中学時代の話で大切なことは、彼女が夢中になったのは周りの人たちが興奮気味に話すアイドルではなく、自分にとって興味があること、いま好きなことだけに集中していた、という事実だろう。
中学生という、もっとも同調圧力の強い時期に、自分が好きなものを他の人に合わせなかった。
人と違うことを恐れない、というよく聞く話ではなく、彼女はこの頃から「自分が好きなものとその対象の間に他人が入れないほど純粋」であったんだと思う。
では、そんな彼女は当時どんなものが好きだったのだろうか。
まず音楽について。
最初はバレエをやっていたことから、クラシックを聞いていたという。
そのうちに「もっと面白いものないかな」と見つけたのが、「現代音楽」というコーナーであり、それを彼女は興味本位で聞いてみた結果、「これだ!」となったという。聞いたのは日本のインディーズバンドであり、ノイズミュージックと分類されるものだった。
彼女によると「ノイズって過激に走るとうるさいのもあるけど、ミニマムな感覚だったり、プログレとか好きな人の作るノイズってすごくロマンチックで。繊細で泣きが入っているというか」と一般的なノイズミュージックではないものを聞いていたようだ。
そういった曲を18歳の時に聞く一方で、高校生の時にはパンクバンドをしていた男の子に片思いをして、その影響でセックスピストルズやクラッシュなどのパンクも聞いていたという。
その後はクラシックに戻ったと語っていたが、2017年のラジオの選曲を聞く限り、「芋づる式に」聴き続けた音楽は、かなり深いところまで辿り着いてしまったようだ。
そして、もう一つの趣味である本については夏目漱石の映画に出演する際のインタビューでこんなエピソードを語っている。
高校2年生の時に『夢十夜』を読んだ彼女は「私の中で、一大ブームになりました。 夢の中のお話なので、荒唐無稽なお話ばかりなんですが、友人にもうひとり日本文学が好きな人がいて、彼女とこの話題で盛り上がっていましたね。 文中の「ブタになりますがようござんすか」とか言い合って大笑いしていたんですよ」と振り返っている。
一方カメラの方は、この時期はオートカメラが全盛であり、「シャッターのチャージ音や巻き上げ音が、とってもデリカシーがなくて!」手をつけてなかったという。
こうして、育った女性はどこに行くのだろうかーー。
まずは東京だろう
彼女もそう思ったようで、高校卒業後の進路について「写真の学校か映画の学校か宝飾の学校に行きたい」と思うようになっていた。
しかし、父親は彼女の希望を認めず、もっと堅い学校に行くことを伝えたという。
「じゃあ、もう少し堅くて、卒業したらどうなるってのがあって、しかも私が好きなものをっていうのを探して、残ったものが医薬だった」と語る。
もともと植物が好きだったこともあり、漢方薬の勉強も好きだったことから、東京の医薬の専門学校に進学することになった。
その一方で「とにかく東京に出ること」が第一目的だったという。
東京にやって来て、医薬の専門学校に通い始めた彼女だったが、密かな野望があった。
それは高校時代に同級生に「涼しげな顔をしている」と言われた時から決めていた「女優」になることだった。だが、どうやってなったらいいのか分からない。
そんなときに「ひょんなことから」現在の事務所を知る人と出会い、「あなたはここが合うかもしれない」と紹介され、向かった事務所には猫がたくさんいたという。
こうして事務所に所属し、仕事を始めると、いつの間にか忙しくなって学校は一年で辞めてしまった。もちろんすぐに芽が出たわけではない。だが、やがて彼女は少しずつテレビにも出演するようになる。
のちに伝説となるソリトンが始まったのは、1995年である。
その前年の1994年、まだフジテレビの深夜番組が元気だった頃、彼女は「文學ト云フ事」と「よい国」の2つの番組に出演している。ぼくは両方とも見ていたが、声がキレイな人だな、という印象で、まだ役柄を必死で演じている感じだった。
「文學ト云フ事」の動画がこちら。
その独特なキャラクターが全開になるのが「ソリトンSide B」だった。
彼女以外にあり得ないほどバッチリなキャスティングであったが、一方で実績も少なく、起用するにあたっては、なかなかの挑戦だったと思う。
彼女はオファーを受けた当時を振り返って「『そんなに器用には進行ができないと思いますが……』と正直に申し上げたんです。そしたらプロデューサーの方が『それでいい!』とおっしゃってくださって(笑)。番組の毎回のテーマにさえ沿っていれば後は自由に、と。だから、進行台本はあってないようなものでした」と語っている。
普通はしっかりした人と、おっとりした人を組み合わせるが、この番組はもう一人の司会の高野さんもおっとりしていて、でも、その流暢じゃない、ぎこちないけど、時間がかかっても、正しい言葉を探しながら話す誠実な感じも含めてこの番組は特別だった。
そして、この番組が終わり、彼女はブレイクする。
三谷幸喜がダウンタウンの浜ちゃんを主役に「龍馬におまかせ」という時代ドラマを撮ることになった。当初は別の女優がキャスティングされていたが、急遽降板、その代役に抜擢されたのが、緒川たまきだった。
ゴールデンのドラマで浜ちゃんの恋人役である。かなり注目を集めたはずだ。
また当時話題になった香港映画『恋する惑星』のカメラマン、クリストファードイルが彼女を撮影した「1997」という写真集が出るなど、緒川たまきには追い風が吹いていた。
そういった作品を残す一方で、資生堂のCMでアジアのアイドル達と共演したぐらいから、少しずつその勢いはなくなっていった。
そのCMがこちら。
原因は分からない。多分色々な理由があるだろうが、その理由の一つは彼女自身の中にあったと思う。
のちのこの当時の心境を振り返って、こう語っている。
「この仕事に就いたものの、ずっと向いていないと思いながらやってきましたね。すごい人見知りでしたし一人でいることが大好きでしたから、大勢の人と関わりながら足並みをそろえて何かを一緒にすることが重荷に思えてしまって」
仕事のスケールが大きくなるほど、歯車が合わないことも増えてくる。そのときに自分を変えるほど器用な人ではない。きっと自分のペースを再確認し、仕事の中身を調整したのだろう。
また、1997年には、ぼくが見た緒川たまきの演技の中でもっとも素晴らしいと感じている作品「3番テーブルの客」第18話も放送されている。
現在、TVCMの伊右衛門シリーズを撮っている中嶋信也監督による、ショートストーリー。ここで彼女は完璧な演技を披露している。緒川たまきファンなら必見だが、こちらはDVDになっておらず、現在では、【フジテレビオンデマンド】でしか見ることができない。
さて、この頃、彼女にとって一つの転機があった。舞台への出演である。
広島で育った彼女が挑んだ「広島に原爆が落ちた日」。
この作品は評判を呼び、1997年にゴールデンアロー賞の演劇新人賞を獲得している。
こうしてテレビの仕事に居心地の悪さを感じていた彼女は、舞台という新たなステージを見つけたのだ。
いつしか彼女の主戦場は、舞台になっていた。きっと「作る」という彼女の好きな行為の密度がテレビよりも舞台の方が多かったのだろう。
舞台にで始めた頃のことを語った動画がこちらだ。
こうしてすっかりテレビで見なくなった頃、いきなり人気番組に登場して驚いたことがあった。
それが「トリビアの泉」の「うそつき」である。
2005~2006年のあいだ放送された、ガセネタの投稿に対して、緒川たまきが「うそつき」というその映像は、タモさんをはじめ、多くの人をゾクゾクさせた。
「うそつき」で新たなファンを獲得する一方で、30代半ばになっても彼女は独身だった。
我こそはと手をあげる男性も多かっただろう。
噂になったビッケとはどうなんだ? 俳優となんか噂があるぞ。またケラの舞台に出ているぞ。またまたケラの舞台に出ているぞ、と思っていたら、ある日突然、ケラさんが緒川たまきとの結婚を発表した。
この報告をゴクンと飲み込めた人は多くないだろう。ぼくも上手く飲み込めなかった。
だが、彼女のトークショーを見て、一つ確信したことがある。それは、この人は並みの男には手に負えないぞ。ということだった。彼女は自分が好きなものと自分との距離に隙間がないのである。人が入り込む余地がなく、完結しているのだ。
その日は猫の話だったが、亡くなった自分の猫を思い出して「あなたがいなければ生きている意味がない」と呟く。それだけ分かち難く結びついてしまうのだ。
そして、とにかく自由である。それは手に負えない、という意味ではなく、自分がワクワクすること、楽しいと思うことに時間を忘れて熱中してしまうのだ(つまり、トークショーの進行がめちゃめちゃになってしまったが、それでいて、めちゃくちゃ面白い!!)。
こういう女性を受け止めるのは、器の大きい人が、そのまますっぽりと受け止めてあげるのが良いのだろう。そう思うと、なぜ彼女がケラさんを選んだのかが納得がいった。
あれぐらいの器が彼女には必要だったのだ。
さて、彼女の歩みをたどった文章も気づけば現在に近づいてしまった。
もちろんサムライフィクションの話もあれば、いいともに出た時にタモさんと猫の話ばっかりしていたという話もある。映画「観察」の演技もファンならマストだろう。
ちなみにもしも彼女の年齢に見合わない美しさの理由が知りたい人が読んでいた場合に書くと、彼女がいいともに出た時に言っていたのは「若い男の子が肌を出して歩いていると、あ、勿体無い、きれいなのに」と思ってしまう。つまり、紫外線でダメージを受ける男子を心配する話をしていた。
ということは、美貌の秘密はいくつかあるだろうが、その一つは徹底した紫外線対策だと思う。
さて、こういった細部ではなく、その歩みの全体像を見たとき、やはりまだまだ彼女の魅力は知れ渡っていないように思う。
特にパーソナリティの部分を知らない人が多い。
緒川たまきのラジオの選曲を記事でまとめた時にケラさんがツイッターで反応してくれて、こんなコメントをしていた。
「緒川さんは僕の比ではないです」
最初は、夫婦の「のろけ」かな、と思ったが、生の彼女を見たらわかった。本当にすごいのだ。
ケラさんの比ではないかは分からない。だが、少なくともそう感じる瞬間はたくさんあるだろう。
ぶっ飛んでいる、とも違う。たとえるなら、かつてソリトンの頃は岸に浮かんでいた船が、すっかり沖に出てしまい「おーい」と声をかけても届かないぐらいに遠くに行ってしまったような、それぐらい、ちょっとケタ違いにすごいところに行ってしまったのだ。
それを発揮させるためには、とにかく自由に。自分の好きなことを、自分の好きなように語らせるのだ。例えば、タモリ倶楽部のタモリや、徹子の部屋の徹子のように自由に過ごさせてあげて欲しい。それを切に願う。
この文章のタイトルは「緒川たまきの作り方」である。しかし、結論から言えば、それは無理だった。
途中までは、悪くない要素を集めていた。しかし、パーツをいくら集めても到達できないのだ。
ただヒントはあったと思う。それは孤独を愛し、自分の好きなものを溺愛すること。そして、無理に周りに合わせずに突き抜けること。
決して、文学を愛し、カメラを愛せば緒川たまきになれるわけではないのだ。
緒川たまき、という存在は「サブカル男子のミューズ」とも呼ばれているが、それこそパーツで語っている偶像であって、今の彼女は「マニアック」なんて言葉を通り越して、サブカル男子がひれ伏すほどの「やべぇ人」と呼ばれるレベルに達していると思う。
いまはテレビやラジオのレギュラーがあるわけでもないため、それに触れる機会が多くないだろう。だが、気になった人はその機会を待っていて欲しい。
繰り返しになるが、緒川たまきは、過去の人ではない。今も現役ですごい人なのだ。
これから先の未来で、ぜひ一人でも多くの人にその衝撃が届くことを願ってやまない。
最後にいくつか動画集です。
サムライフィクションのカラー版。
ミュージックビデオではこれが一番良いと思う。
と彼女の関連作品です。
映画はこれがベストかと。
観察 永遠に君をみつめて [DVD]
これは彼女を写す、というよりも当時の香港の空気を写した感じ。でも、素敵な本です。
緒川たまき1997
彼女が撮った写真なのに、彼女が写っている、というアラーキースタイル。こちらも素敵です。
緒川たまきのまたたび紀行―ブルガリア篇
ぼくが最高傑作だと思う、3番テーブルの客は【フジテレビオンデマンド】でだけ見れる。とりあえず、無料登録の時期でも見れるので、見てないファンならマストだろう。