さいきん久々に立川志らくの落語をテレビで見たら、見違えるほど良くなっていた。
若い頃の落語はなんだか忙しなくて、味が無い感じだったけど、すっかり変わっていた。
それ以来、彼が気になり、ツイッターをフォローし、そして何を考えているのか知りたくて手にとった本が『落語進化論』だった。
内容はすごく良くて、一層好きになったのだが、その中で一番驚いたのが、立川談志が柳家喬太郎の落語に激怒し、「引きずり降ろせ!」と途中退席させた事件についてだった。
知らなかったから驚いたし、衝撃的だった。柳家喬太郎といえば、人気実力ともにトップクラスである。なぜ談志は怒ったのか、その理由はなんだったのか?
怒る談志とブーイングする観客
本に書かれていた概要を説明すると、その日は談志、志らく、喬太郎が揃って出演する日だったという。落語ファンからすれば、かなりのランナップだ。ちなみに、志らくと喬太郎は同じ大学であり、仲は良い。
志らくは、その現場に居合わせたそうだが、その日の喬太郎は抜群に受けていた。そんな中、いきなり談志は激怒し、「ひきずり降ろせ」と弟子に言い、話の途中だというのに前座に太鼓を叩かせ、退場させたという。
喬太郎は柳家一門であり、立川流ではないから、言うことなんて聞かなくても良かったかもしれないが、とはいえ、例え主宰者が怒ったとしても、当時の立川談志に意見を言える人間なんて存在しなかった。
客席からは「談志さん、ひどい!」という声も上がっていたが、喬太郎はそのまま退席していった。
それが一部始終であり、その件について談志が周囲に説明をしたり、喬太郎が語った話は聞かない。
両者を知る存在である、志らくは、なぜ談志が激怒したのか、しばらくまったくわからなかったという。後に時間が経ってから志らくなりの解釈が本書に載っていたのだが、これがかなり秀逸だった。
江戸の風という概念
志らくは、談志の意図が分からないなりに推理をしたという。その際にヒントになったのが、談志がよく語っていた言葉。
「江戸の風」だったという。
談志は著書の中でこう語っている。
「寄席という、独特の空間で、昔からある作品を江戸っ子の了見で演る。己のギャグ、自我、反社会的なこと、それらを江戸の風の中で演じる。非常に抽象的だが、そうとしか言えまい。『江戸』という”風””匂い”の中で演じるということだ」
志らくはこの言葉を引用しながら、喬太郎は面白い。だが、江戸の風が薄いのだ、と断じている。
落語の定義は人によって異なる。だが、少なくとも談志にとってはいくら客席が受けていようが、江戸の風が吹いていないものは落語ではないのだ。自分にとって落語でないものが落語界に蔓延しようとしている。だからこそ彼は突然怒り、途中退場させたのだ。
もちろんこれは、2011年に志らくが執筆した時点で、当時を回想し、喬太郎は「江戸の風が薄い」と語っているのであり、あれから6年の月日が経っている。喬太郎もひょっとしたら志らくの文章を読んで意識して変えたかもしれない。だから、「江戸の風が薄かった」と過去形にした方がいいかもしれない。
とはいえ、すごい話である。
現代において落語を語るとは何なのか?
それにしても、本書を通して改めて思うのは、現代において落語を語ることのむずかしさである。
着物を着て、座布団に座って、寄席でやればそれは落語なのか。ジブリとかの新しいギャグを入れれば、現代的な落語だと言えるのか。なんでもいいから面白ければいいのか。
そういった点を突き詰めて考えた時、やはり談志の言うように「江戸の風」、江戸時代に生まれた「すべらない噺」を当時の人びとの了見で演じる点には、こだわって欲しいと思う。それが無きゃ落語じゃないとはいわない。だが、やはりそれが失われて進化したものは、きっと落語ではない。
談志がいない今、モーゼのように海を真っ二つに分けて、道を示すような存在はもういない。
それぞれの落語家が思い思いの「現代にふさわしい落語」を演るだけだ。
その中で、談志が怒った、この日の出来事は落語会全体で共有し、忘れてはいけないことだと思う。
「江戸の風」。かっこいいフレーズだなぁ。