「フリースタイルダンジョン」の影響で、日本のヒップホップが再び注目されている。
このタイミングで改めて紹介したラッパーがいる。
日本語ラップ界で唯一の天才と呼べる男、TWIGY(ツイギー)である。
このツイギーについて、彼を10代の頃から知るラッパーのECDは、アルバムのライナーノーツの中でこう紹介している。
『TWIGYは紛れもなく天才と呼んでいいアーティストの一人である。
(中略)
TWIGYはヒップホップシーン以外からの評価も高い。
「この前初めてライブを見たんだけど、TWIGYだけはホント凄いね。ちょっと飛び抜けてるよ」ヒップホップについて詳しくはないけれど、音楽を聴く耳は確かなミュージシャンがこんな風に言うのを聞いたのは1度や2度ではない。
(中略)誰もがTWIGYのようにラップ出来ることを目指した。TWIGYのラップが最も音楽的に高度だったからだ。つまり、日本語でラップをするという試行錯誤の一つの到達点がTWIGYのラップなのだ。
今はもう、そこまでやらなくてもいいだろうという者はいても、TWIGYより先に行こうとするラッパーは見当たらない』
(ライナーノーツのECDの文章より)
もちろんECDがこう書いたから天才と言っているわけではなく、ライブを何度も見て確信したから書いているのである。
ここではTWIGYがなぜ天才なのか、その理由と半生について紹介してみようと思う。
病弱だった少年時代
1971年、ツイギーは三重県で生を受ける。
幼いころの彼は小児喘息だった。そのため、病弱で体型はガリガリだったという。TWIGYには「小枝」という意味がある。そのアーティスト名の由来は彼の細身な外見から来ているのだろう。
多感な10代を80年代という華やかな時期に過ごしたTWIGYは、やがてストリートカルチャーのひとつであるブレイクダンスに興味をもつ。当時はラップよりもダンスから入る人が多かった。
その中でTWIGYは、次第にダンスのバックミュージックであるヒップホップにはまっていく。そして、1987年、16歳の時に同郷のDJ刃頭(はず)と「BEATKICKS(ビートキックス)」を結成して、名古屋を中心に活動を開始する。
余談だが、ここで登場するDJ刃頭はのちに同じ名古屋出身のトコナXとイルマリアッチを結成するが、そのきっかけはビートキックスへの出演依頼に対して、TWIGYが行けないと言ったので名古屋の活きの良い若手を連れて行ったのが始まりだった。
名古屋から東京へ
まだ東京にもヒップホップの情報が少ない中で、ツイギーは地元でラップを学び、オリジナルなスタイルを身につけた。
「東京はもっと進んでいると思っていた」というツイギーは必死で練習し、東京に負けないようにスキルを磨き続けたのである。まさに「毎日磨くスニーカーとスキル」の日々だった。
やがてツイギーは腕試しに東京のステージでラップをする。
すると、ステージを降りたら見知らぬおっさんに腕を捕まれた。
「僕がやっているイベントに出てくれないか?」
声をかけたのは、後に「さんぴんCAMP」を主催するECDだった。
ツイギーの運命が動き出した瞬間だった。
ちなみにECDは伝説のイベント「さんぴんCAMP」を96年に主催したことでも分かるように、かつては日本のヒップホップ界のまとめ役をしていた男である。
他のラッパーより一回り年齢が上だったこともあり、その方向性や思考は当時のヒップホップ界の羅針盤だった。
だが、その後はヒップホップがメジャーになるにつれて、昔から好きだった酒におぼれ、アルコール中毒となる。
復帰後はメジャーレーベルからインディーズへと移行。現在は文筆業でも優れた才能を発揮している(2018年に死去)。
そんな彼の眼に名古屋からやってきたツイギーの存在は驚きであり、思わず腕をつかむほど特別な存在だったのだろう。
オリジナルなラップを完成させる
本人は名古屋で「東京よりも遅れている」と思って必死にラップを研究していたが、ツイギーが10代で東京に来た時、彼はすでに最先端にいた。
しかも彼のラップは完全にオリジナルだった。
ラップを構成する要素は、韻を踏んだ「ライム(詩)」と言葉をどう発音するかという「フロー」の二つから成り立っている。
ヒップホップリスナー以外には分かりづらい「フロー」について、ECDは「方言」と表現している。ラッパーなりの話し方と言えばいいのだろうか。
例えばお決まりのセリフ「調子はどうだい?」と言う時も、”ちょーし”に力を入れる人もいる。だが、一方で”どーだい”に力を入れる人もいる。”ちょー”と”どー”に力を入れれば、韻を踏んだような形になる。
このフローの面でツイギーは唯一無二の境地に達していた。一発で聞く者を魅了する「パンチライン」(例・ジブラの『俺は東京生まれ ヒップホップ育ち』など)よりも、細かく韻を踏んだ言葉の流れにおいて独自性を出したのが、彼のラップだった。
さらにライム(詩)の作り方も独特だった。「視覚的に来る文章が好き」というツイギーは、自分が発した言葉が聞く人にどういう絵を見せるのかにこだわる。
たとえば『空は青く、雲は白い』という。でも『白い、雲が白く、青い空が』とか『青い雲に白い空』わからないけど、なんか順番が違うと、違う絵がくるじゃないですか。だとしたら「雲、白」みたいなのでもいいわけで、そこに「に」とか「を」とか「て」っていうのははっきりいって音楽自体にはあんまり必要ないじゃないかと俺は思ってるんですよ
ツイギーにとって詩は文章や言葉の流れでなく、絵を見せるためのツールなのである。そのためには文章を解体し、単語で詩を組み立てなおすのだ。
この発想はやはり飛びぬけている。ラップ独自の作詞法であり、唯一無二だと思う。こうして彼は完全にオリジナルな詩の世界を構築していったのである。
マイクロフォンペイジャーから雷へ
やがて、ツイギーは東京で出会ったムロと仲良くなり、東京に来るたびに居候をする仲になる。
ムロは当時、DJクラッシュ、DJゴーとともに最も早い時期にラップしたグループのひとつである「クラッシュポッセ」に所属していた。
ちなみに最近1992年のクラッシュポッセの動画があがっていたので、紹介しよう。のちに世界的な評価を受けるDJクラッシュのさすがといえるポップなトラックとキレキレのムロのラップはいま見てもイケている。続けていればスチャダラパーを超えれただろうカッコよさがある。
同グループはやがてDJクラッシュが独自の道を歩み出したことにより消滅している。
そこでムロはツイギー、P.H.FRON、MASAO、DJ GOと共に伝説のグループ「マイクロフォンペイジャー」を結成する。
このグループがステージで圧倒的なパフォーマンスを発揮。
「ヒップホップってかっこいいじゃん」と思わせた日本初のグループとなる。そして現在も活躍するDABO(ダボはツイギーを当時のアイドルと表現している)や後に雷で同じメンバーとなるリノなど多くのアーティストたちに影響を与える。
ちなみにハードコアな日本語ラップの原点と言われるマイクロフォンペイジャーだが、彼らのCDは解散後に発売されたためその全盛期の勢いは残っておらず、「あんなもんじゃない」とかつてを知る人は語っていた。
だが、いまYoutubeを見ていたら1993年の動画があった。これが一番良い時かは分からないが、その片鱗は見れると思う。2番目にラップするツイギーは、まだ完成されていない印象を受けるが、声の高低差を活かしたラップはすでに確立しており、それだけで十分一聴に値すると思う。
やがてこのマイクロフォンペイジャーも活動を休止。
ツイギーはその後、リノ、ユウザロック、GKマーヤンと共に「雷」を結成。
テリー伊藤プロデュースの伝説のお笑い番組「浅ヤン」のラップコンテストに覆面で出演している。
その後も圧倒的なパフォーマンスのライブは話題を呼び、日本語ラップは雷を中心に進んでいく。
「カミナリ」「夜ジェット」という2曲のクラシックを残した彼らだが、”これから”という時期に活動を停止。その後は、それぞれのソロ活動へと移行していく。
ツイギーはスナフキン?
ツイギーはCDで聞いても素晴らしい。
だが、彼の魅力がもっとも発揮されるのはCDよりもライブだ。物静かでアクティブな印象がない彼だが、ステージではけっこう動く。
踊るし、手を振り回すし、よく跳ねる。また、曲の合間のMCでも独特な間で観る者を魅了し、笑いを起こす。
例えば夜中のイベントに行ってるのに登場するなり「みんなまだ起きてるの? もう寝なさい。遅いよ」と語りかけたりする。
その日はジブラ、DABOもそれぞれ出ているイベントで、他のMCの第一声がたいてい「手をあげろ~」と声を出して盛り上げる中で、その出だしである。
不思議な脱力感がありつつ、その場が一気にツイギーワールドに突入する。そういう空気をつかむ能力に長けた人なのだ。
それは彼のひとつの哲学に起因している。あるインタビューで彼はこう語っている。
みんなが同じことをこぞってやるのがヒップホップではないと思ってるから、俺は。その中で新しいものを打ち出して、ヒップホップだ、っていうふうになるわけで。全員が同じスニーカーを履いていたらそれは制服なだけ。その中にはいたくない
私はこれまでソロや雷の時も含めて何度かライブを観ているが、彼のライブの特徴は、しばしば特別な時間が訪れることにある。
大勢いるはずの観客が盛り上がることを忘れ、ポカーンと彼のラップに釘付けになってしまうのだ。
脳が思考を止め、ただ言葉の連射を傍観する。早い、すごい、そんな単純な感想だけが頭に浮かぶ。
常に第一線にいた彼のライブは、他の人よりも圧倒的に飛び抜けている。これは10人とか出る中で、ツイギーを見ると特に顕著になる。この人は違うとなるのだ。
そして、もうひとつ。彼には非常に機知に富んでいるところもある。
古いから親交のあるライムスターの宇多丸が、TWIGYのエピソードとしてこんなことを語っている。
来日アーティスト目当ての黒人大好き客からブーイングされた時にTWIGYは『Are You Racist(レイシスト) ?』と言い返した
まだ日本人がラップすることがダサいと言われた時代に彼は君たちは差別主義者か?と英語で言ったのだ。日本人に。レイシストと言う言葉が一般的になる前に彼はそういう言葉を発見し、使っていたのだ。
そういう機転が利くところがライブでは随所で発揮される。それが彼のライブの楽しみでもある。
ツイギーのいる幸せ
抜粋した文章からは抜いてしまったが、ECDは彼が68年に10代なら天才フォークシンガーとして現れていただろうし、77年に10代なら伝説のパンクロッカーになっていただろう、と書いている。
ツイギーという天才がヒップホップ界にいる、という事実は80年代後半のヒップホップが彼を虜にするだけのインパクトを持っていた、ということなのだとECDは言う。
「ヒップホップは止まらねぇ!!」
ある日のライブでそう叫んだツイギーの言葉を今もよく覚えている。
ジャズの帝王マイルスディビスはアルバムごとに進化を続けた結果、もはやジャンルも分からなくなったが、ジャズファンは離れることなく、「マイルスこそジャズだ」とその進化を称賛した。
天才の前に道は無い。天才の後ろに道はできる。でも、誰も追いつかない。
それこそがツイギーが孤高の天才。唯一無二の存在といわれる所以なのだろう。
ツイギーの魅力が分かる曲
夜行列車
TWIGYの魅力が詰まった曲。独特のフローがばっちりのトラックにはまっている。BOY-KENとのコンビネーションもばっちりである。
FREEDOM
TWIGYソロ曲の中でもっと有名な一曲。盟友ユウザロックとの一曲。一回だけユウザロックが出ている番組でテレビでやったのを見た気がする。クラシックのひとつ。
証言
間違えないヒップホップクラシック。ツイギーは5番として登場している。「毎日磨くスニーカーとスキル」というパンチラインが心に残る。。4番のジブラの若さが気になる。。
イカヅチ
4番目に登場するツイギー。雷復活ライブを生で見た人間としては、かなり痺れた一曲。早すぎてついていけない。ツイギーのラップの一つの最高峰だと思う。
Rain
最近のツイギーの曲。ジャズとの融合が顕著になっている。
さらに知りたかったらこちらの本のインタビューがおすすめです。