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タモリのジャズを聞け!~デビュー前の半生と面白さの秘密について

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芸能界を見まわした時、タモリほど謎の人物はいないと思う。

圧倒的な話術があるわけでもなければ、常に爆笑を起こす力をもっているわけでもない。

ただ、ネクタイとサングラスをして座っているだけで、番組に安心をもたらす不思議な存在感がある。

そもそも、この人は30歳を超えてデビューして、気付いたらビック3になっていた。その出自も謎に包まれている。それまで何をしていたのか、なぜサングラスをしているのか。

「いいとも」を辞める前後から、タモリの再評価が始まったが、それ以前は多くの人が「タモリってつまらない」と言っていた。

ここで書こうとしているのは、タモリのデビューまでの軌跡と、彼を面白いと感じる方法についてである。

タモリを楽しむには実は「コツ」が必要だ。彼がテレビという場所で何をしているのか。もっといえば、どんな「試み」をしていたのか。それを解き明かそうと思う。

まずはその謎に満ちた生い立ちから紹介したいと思う。

通行人ばかり見ていた少年時代

タモリが生まれたのは、終戦の年である昭和20(1945)年。血液型はO型。出身地は福岡県福岡市南区市崎だった。

家庭環境は複雑で3歳の時に両親が離婚したため、タモリは祖父母によって育てられている。

そんな少年時代についてタモリは「毎日、通行人ばかりを見ていた」と振り返っている。

人を見る、町を見る。のちの天才的な観察眼はこの時期に身に付けたのかもしれない。

ちなみに幼稚園には通っていない。一度見学に行ったら、ちょうどみんなが「ギンギンギラギラ」とお遊戯をやっていて、「オレはこんなことできない」と言って幼稚園に行かなかった。そう、小さい頃からすでにタモリはタモリだったのである。

そして、小学校一年生(6歳)の時に事件が起きる。倒れた電柱を興味本位で覗き込んだところ、飛び出していた針金が右目に刺さり、右目の視力が低下してしまったのだ。

どの本を見ても、この件についてのコメントは見つからなかったが、わずか6歳で片方の目がほぼ見えなくなる、というのはかなり大きな出来事だと思う。

現在、タモリがそんなことを感じさせることは無い。だが、当時は違っただろう。なぜ自分が、果たして治るのか、色々と葛藤はあっただろう。

しかし、どこかでそれを乗り越えたのだろう。ある種、達観したようなタモリの態度と幼年期の好奇心が生んだこの事件は、関連性があるように思える。

教室のタモリはどんな様子だったのか?

小学校時代のタモリは「先生に指してもらえるように、わざと教室の外を見て、しっかりと授業を聞いていた」というちょっとひねくれた少年だった。

シャイなイタズラ好きだったが、やがてクラスメイトを笑わすことに目覚め、小学校の卒業式ではなんと漫才を披露したというエピソードも残されている。

また、中学時代には、意外なことに教会の日曜教室に熱心に通っていたという。え、クリスチャンなのか?と思いきや、後に「徹子の部屋」に出演した時に、その理由を「牧師が面白かったから」と語っているのは、観察好きのタモリならでは。

また、この頃に、祖父がゴルフブームを見越して『森田ゴルフ』を興すも、まだ時代より早すぎたのか倒産。その結果、この頃の森田家には無駄にゴルフセットが転がっている状態だったという。
現在は大のゴルフ好きとして知られるタモリだが、その嫌な記憶のせいか、かつては「あんなミミカキの大きいの振り回して何が面白いんだ」と語っていた。
その後、高校は県立の筑紫丘高校時代に進学。またあまり知られていないが、高校時代に剣道で柳生新陰流居合二段を取得している。
卒業後は大学受験を行うが、不合格となり、一年間の浪人生活を送る。
この浪人時代に受験のために毎晩外国語放送を聞いていた経験が、後のデタラメ外国語に繋がったと思われる。

吉永さゆりと同じ早稲田大学に入学

昭和40(1965)年、一浪後に早稲田大学第二文学部西洋哲学科に見事に入学している。そう、哲学科なのである。のちに「友達なんていらない」「夢がある人生はつまらない」など独自の哲学を語っているが、それは哲学科というバックボーンに関係あるのだと思う。

ちなみに、村上春樹が早稲田大学に入学したのは、1968年なので同じキャンパスにいたかもしれない。
さて、ここでタモリに大きな転機が訪れる。早大モダンジャズ研究会に入ったのだ。ちなみにタモリのあだ名が生まれたのはこの頃。これは現在の業界用語の元ネタであるジャズ界の逆さま言葉(モリタ→タモリ)から生まれたもの。
ジャズ研ではトランペットを担当するが、下手すぎて挫折。この時に言われた有名な言葉が「マイルスのトランペットは泣いているが、おまえのトランペットは笑っている」。

逆にしゃべりが上手いという理由で、同研究会の司会を担当するようになる。当時のジャズ研のマネージャーというのは、ツアーや公演の金庫番でもあり、意外と生活には余裕があったという。

しかし、授業料を友人に貸してしまい、その返却が遅れたために授業料未納で、1年で除籍になってしまった。それでもそのしゃべりの腕を買われて、ジャズ研の司会は続けていた。

当時たまたま大橋巨泉がタモリの司会ぶりを見て誉めたと言われている。素人時代からタモリのしゃべりが一級品だったことを伝える貴重な証言である。

まじめだった!?福岡のサラリーマン時代

こうして大学除籍後も東京にいたタモリの元に一本の電話がなる。

「仕事決めといたよ」母からだった。

福岡に連れ戻されたタモリは朝日生命の保険外交員として働き始める。

意外なことにまじめに勤務し、結局、その仕事を3年間務める。また当時、同じ会社に勤めていた春子さんと交際を開始し、昭和45(1970)年には25歳で結婚をしている。
この奥さんのことは、ほとんど話題に出てこない。唯一、結婚後のエピソードとして出てくるのが、タモリがたまに押入れに籠ってデタラメ外国語の練習をしていた、という話である。その話だけ聞くと「よく別れなかったな」と思うが、それを放っておいたということは、やはり春子夫人も少し変わった人だったのだろう。
その後、仕事を辞めて、旅行関係の会社に入るが、その会社がボウリング場経営もしていたため、そちらに配属され、ボウリング場の支配人となる。
しかし、ボウリングブームが下火になると、仕事を辞め、その後は駐車場や喫茶店の責任者など転職を重ねた。

当時のタモリについて同じ福岡出身の武田鉄矢が「福岡の喫茶店に面白い人がいるって仲間の中で話題になっていた人が実はタモリさんだったんですよ」と「いいとも」に出演した時に語っている。

さすがタモさん。彼がマジメに喫茶店で働くわけがない。「タモリあるところに笑いあり」である。

人生を賭けて打ち上げに潜入

その頃のタモリは、すでに27歳。職を転々としていたが、結婚もしており、普通なら喫茶店の面白い店員として、このまま福岡で一生を終えると考えるのが普通だろう。

だが、ここで転機が訪れる。
ある時、福岡に日本ジャズ界の天才・山下洋輔が公演で来ていた。彼の大ファンだったタモリは公演を見に行き、その後に彼らは絶対に打ち上げをやっているだろうと、宿泊しているホテルに入った。

するとその中の一室のドアがわずかに開いており、室中から楽しそうな笑い声が聞こえる。

ここが打ち上げ会場だと確信したタモリは、室内に飛び込んだ。

ここからは、ちょっと長くなるが、山下洋輔著の『ピアノ弾き翔んだ』から引用しようと思う。

その前にちょっと説明。この部屋にはこの時、中村誠一という当時のバンドメンバーがいた。彼は、「デタラメ朝鮮語」や「フリー落語」などを得意とする、仲間の人気者であった。

山下洋輔は、「私とタモリの出会いという形で色々なところで話したり、書いたりしたが、実はあれはタモリと中村誠一の出会いだった」と語っている。

さて、その出会いというのを、改めて引用してみたいと思う。

その晩、ホテルの一室で中村はユカタ姿で踊り、私と森山はデタラメ三味線と長唄をやっていた。~中略~出し物が最高潮に達した時、一人の見知らぬ男が踊りながら入って来たのだ。一同驚きながらも続けるうちに、この男は中村のかぶっているカブリモノ(それは藤椅子の底が抜けたものだった)を取り上げてしまった。それを自分がかぶり、あるいはツヅミのように小脇に抱えてたくみに舞った。それは我々の知る中村の踊りよりもさらに一段と磨きがかかったものに見えた。この時になって我にかえった中村は、大声で男の無礼を咎めた。デタラメの朝鮮語だ。『タレチョネン イリキテカ スミダ』すると我々も予想もしなかったことが起こった。男がやはり同じ言葉で、しかも、どう聴いても三倍は流暢に返事をしたのだ。『ヨギメン ハッソゲネン パンチョゲネン パンビタン ピロビタン ウリチゲネンナ ゴスミダ』後に二人は『ヨギメン友達』と呼び合うが、その記念すべき最初の会話はこうしてなされたのである

以上のようにタモリは衝撃的な登場をする。そして、その後も一同かつて見たことない芸の数々に笑い転げる。
気づけば朝になっていた。打ち上げもお開きになる頃、ようやく山下洋輔たちは我に帰り、「あいつは誰だ?」となった。名前を聞かれたタモリは「モリタです」とだけ言ってその場を去った。
現在では、広く知られるようになったこのエピソードだが、自分がタモさんの立場だったら、何ができただろうと思う。好きなバンドのメンバーが打ち上げをやっている、きっと彼らはふざけている。そこに入っていって果たして「彼らを喜ばせる芸」を披露できるのか。

タモリは、当時完全なアマチュアである。人前で芸を披露したこともない。それでも飛び込み、必死で「何か」をやった。

これはタモリという人物のその後の流れを見ると、かなり稀有なことである。タモリは、ただ流れに任せて生きてきた人である。

大学を除籍になったのも、福岡に戻ったのも、ぜんぶ流れに任せた結果である。そんなタモさんが唯一自らアクションを起こしたのが、この福岡の夜だった。それはタモリの人生を一変させる、特別な夜だった。

九州の伝説の男タモリが上京

そして、いよいよタモリが上京する。

ここからは、当時、山下洋輔と交友のあったジャズ評論家の相倉久人さん(私の恩師で2015年に死去)へのインタビューを元に紹介しよう。

「福岡から帰ってきた山下洋輔が、当時、僕らのたまり場だった「ジャックの豆の木」というバーで『福岡にすごい面白い奴がいた』という話をしたんだよ。そしたら、その店にいた奴らが『その九州の伝説の男をぜひ見たい』ということになって、みんなで旅費を出し合って、福岡からタモリを呼んだんだ」
こうしてタモリは大学時代以来の上京を果たす。

一方、タモリはこの時、何を考えていたのだろうか。実は東京でお笑いをやろうと思っていたのだ。

「もともと三十までは何をやってもいいと思っていて、三十から一生やる仕事を見つけないといけないぞ、ということで三十になった時にそれまでやっていた仕事を辞めて、いったい自分は何をやるのがいいんだろうと、ずっと考えていた」

そこで辿り着いた結論が「東京でお笑いをやる」だった。

一方で自分の笑いが、東京の枠組みに入っていないことは意識していたという。

「当時のお笑いには当てはまらなかったですね。自分が面白いと思ったことをやろう。いままであるお笑いとは違うことをやろうと思ってまして(中略)その頃に赤塚不二夫に出会って、あの人も当時のお笑いには不満があったので全面的に賛成でした。当時は落語、漫才、色物、このどれかに当てはまらないとダメだったんです」

タモリは、自分が今までの枠組みに無いお笑いをやろうと決意をして上京してきたのだ。

早速、「ジャックの豆の木」にやってきたタモリに店の常連客は次々と注文を出す。

当時の常連客とは筒井康隆、赤塚不二夫など、すごい面子が揃っていた。その場に居合わせた相倉さんは、初めて見たタモリの印象をこう語る。

「とにかく笑いに対しての反射神経が抜群だった。もともとジャズはアドリブが多いから、それで鍛えたのかも知れないけどね。例えば、物まねをしている時に横から筒井さんが『そこで雨が降ってきた』と言うと、ちゃんとそれに合わせた物まねをする。それも本当にその人が言いそうなことを言う。どんな難しいリクエストにも即興で答える。あれにはみんな驚いたね。まぁとにかく笑ったよ」
そして、すっかりタモリを気に入った赤塚不二夫はこの男を福岡に帰してはいけないと思い、「おまえ、うちに居候しろ!」と言い、その一言でタモリの東京での居候生活が始まる。

ちなみにこれがその後も赤塚さんが亡くなるまで続いたタモリと赤塚不二夫の交友の始まりであった。

こうして赤塚家に居候したタモリだが、居候と言うよりは、赤塚を追い出して、赤塚の家にタモリが住んでいた状態だった。

なんと追い出された赤塚は事務所でロッカーを倒し、ベッド代わりに寝ている生活をしていたという。

一方、タモリは、赤塚の家でやりたい放題。なにしろ冷蔵庫にはいつでもハイネケンがびっしりと入っており、ベンツも乗り放題。たまに赤塚が家に帰ると、たくさんのタモリの友人が集まっており、中から赤塚の服を勝手に着たタモリが出てくる始末だったという。

またその後、福岡にいた春子夫人も東京へ呼ばれ、ともに赤塚の家で居候生活を送っている。この時期のタモリは当然、仕事はしてない。当時のタモリは30歳前後である。果たしてこんな奴はかつていただろうか? ニートのレベルが違いすぎる。

夫婦で居候をしていたスーパーニート・タモリ

「私の人生は流れに任せただけ」というタモリだが、妻もいるのに将来に不安を抱えるでもなく、遊びほうけるだけ。
この時点では、将来の保証など何一つないにも関わらずだ。しかし、結果として、この時代がなければ、現在のタモリは存在しなかった。つまり、タモリの一番の非凡さは、将来について、こだわらない、考えない、という徹底した、適当さにあるのだ。
そうして赤塚さんの家で優雅な生活を送っていたタモリだが、毎晩「ジャックの豆の木」では、伝説的な密室芸を披露していた。

なぜ密室芸なのかというと、それは当然、外では見せられない芸だからだ。例えば、有名な「イグアナ」を全裸でやるなど、想像するだけで気が滅入るようなことを楽しそうにやっていた。

また「あの頃、赤塚不二夫と全裸で店を移動とかもしていたな」とは、前述の相倉氏の談である。さらに相倉氏は「ジャズメン特有の悪ふざけ。その感覚を吸収して、テレビでやったのがタモリだ」と語っている。
つまり、この密室芸時代こそ、現在のタモリの全てが詰まっているのである。

タブーがないタモリがやった二つの天皇ネタ

この頃のタモリのレパートリーのひとつに天皇の物まねがあった。

それについてはこんなエピソードもある。ある日の筒井康隆の出版記念パーティーの席で、タモリが壇上で挨拶をすることになった。

その時にバックで音楽を担当していたメンバーもみんなタモリのことをよく知っていたので、タモリがしゃべっている途中から曲を「君が代」に切り替えた。

するとタモリは急に天皇の物まねで挨拶を始めた。

会場は爆笑に包まれ、筒井氏も一緒に笑っていたが、自分のパーティーで天皇の物まねをしたことが噂になると大変だ、と気づいた筒井氏が次第に青ざめて止めたそうだ。

また天皇と言えばこんな話もある。ある時、タモリが、宮内庁に電話をし「天皇に話しがあるのでつないでください」と言ったという。

すると当然のように断られ、電話を切られてしまった。

そこでタモリは即座にかけ直し、天皇の物まねをしながら「今、私に電話がかかってこなかったかね」と言ったという。

結果はもちろんすぐ切られたそうであるが、タモリの悪ふざけに不可侵はないってことが良く分かるエピソードである。

タモリがテレビデビュー

その後もタモリは毎晩、密室芸を披露しており、次第に業界人の間で話題になっていく。そして、昭和51(1976)年、テレビ東京の『モンティ・パイソン』でテレビデビューを果たす。実にタモリ31歳の時であった。

また同年には『オールナイトニッポン』のラジオパーソナリティにも抜擢されている。

その後も『今夜は最高!』などの番組で独特のキャラクターを発揮し続けたタモリだが、あくまで「深夜番組のタモリ」として、下ネタを連発し、女性からは忌み嫌われる存在だった。

タモリ自身は当時の自分を「江頭みたいな存在だった」と語っていることからも、当時の立ち位置が分かるだろう。

そんなタモリがなんとお昼の番組の司会者を担当することになった。なぜ彼を起用したのか?

その理由を当時の番組プロデューサー横沢氏(故人)はこう語っている。

「確かにタモリに昼の番組が勤まるのかという意見はあった。しかし、タモリは頭が切れるし、アドリブが利く。これはタモリの哲学なんだろうけど、適当であるというところ。こういう番組ではそれが大事だった。だからタモリに決めた」

逆にタモリ本人が「俺なんかが昼の番組やっていいのか?」とビビっていた。そんなタモリに横沢プロデューサーは「とにかく自然体でやれ」と言ったという。
当初、タモリは「3ヶ月で終わる」と思っていたが、結局、ギネスにも載る長者番組となる。

この長続きした秘訣について、横沢氏は「まず番組は作る人が飽きる。次に出演者が飽きる。そして視聴者が飽きる。だからタモリには、仕事できているとは思わないで、遊びに来ていると思っていくれと言っていた」と語っている。

そしてタモリも「仕事は楽しいよ。楽しいから仕事なんて言ったら、ちゃんと働いている人に失礼だから仕事と思ってない」と言っている。

ちなみに、この年にはもう一つの長寿番組「タモリ倶楽部」もスタートしている。

その後の活躍はみなさんもご存じの通り、やがて国民的司会者へと登りつめていき、「いいとも」が終わった今もその地位は揺るがない。

かつてのタモリを知る人は「密室芸時代のタモリこそ本当のタモリ」と語る。相倉さんに取材している時も、当時を思い出しながら、何度も思い出し笑いをしていた。

タモリを東京に呼び寄せた山下洋輔は、テレビに出ているタモリを「必殺技の出せないウルトラマン」と表現してる。密室芸時代のネタは、テレビでほとんどできない、という意味だ。
そんな密室芸を封印されたタモリが、なぜ芸能界で生き残れたのか、そしてタモリをより楽しむにはどうしたらいいのか。

続いて、その秘密について書いてみようと思う。

タモリの面白さを分からない人はたいていつまらない

始めに、私は大胆な仮説を立ててみたいと思う。

それは「タモリをつまらないという人はつまらない」というものだ。

逆に仲間に面白いと言われているような人ほど、タモリは面白いと絶賛する。その違いは一体どこにあるのだろう。ずっと考えていた。

そして、出た結論は「笑いとは、どうすれば生まれるのか?」を知っているか、知らないかの違いだった。

つまり、タモリをつまらないという人は、笑いを受け取る側の人であって「笑いを生む」という行為が理解できていない人であり、日常で笑いを生むために試行錯誤している人は、その思考を軽く超越するタモリに尊敬の念を抱くのではないか、という仮説である。

それについて考えてみようと思う。

笑いはどうやって生まれるのか?

そもそも笑いを生むとは何か。例を出そうと思う。内容は単純なボケとツッコミからなる漫才だ。

松本人志はかつて「ボケは、ツッコミの問いかけに対して、間違ったことを言う。それに対して、ツッコミが修正する。ここで笑いが生まれる」と語っている。

とりあえず、次を読んでみて欲しい。
「先日、うちの近所に猫がいましてね」
「ほうほう」
「鳴き声がうるさいんですよ」
「なるほど」
「たぶん、発情期ですね」
「そういえば、うちもうるさいんですよ」
「ほう、君のとこもか」
「そうなんですよ。ワンワンうるさくて」
「そりゃ、犬だろが!」
この最後の不正解とそれを修正する、この二つのやりとりによって笑いは生まれる。

漫才の基本は、このスタイルである。

ボケが意図的に間違える、ツッコミが客席の代表として、それを修正する。

その意図的な間違いをどうするかが、各芸人の腕の見せどころである。

そして、ここが重要なのだが、この間違えというのが、みんなが間違えだと分からなくてはいけない。つまり、「猫はニャーと鳴き、犬はワンと鳴く」という知識が客に無くては、この笑いは成立しない。

ということは、実は笑いというのは、受け手側に前提となる知識があって始めて成立するものなのだ。

例えば、ネタによっては、みんなが知らないマニアックなものが登場することもある。
「僕はね、ラーメンを両手に箸をもって片方を冷ましながら食べるんですよ」
「おまえは、『食いしん坊』のハンター錠二かよ!」
というネタがあったとしよう。

この場合は、マンガ「食いしん坊」を読んでいなければ、全く通じないネタである。

つまり、このみんなが共有している「集合知」のような分母を把握しておくことで、笑いは成立するのである。

さて、以上の例からも分かるように「笑いを生む」とは、みんなが共通して間違いと分かるネタをやらなければいけないのである。

そして、同時に見る側は知識量・情報量が多い方が、笑いの許容量(笑えるか否か)が大きいということが分かると思う。

松本人志の笑いは何が違ったのか?

以上のことから面白い人というのは、笑いにおける、間違いのさじ加減を知っていて、それをタイミングよく言える人ということになる。

そして、それよりも面白い人というのは、それのさらに上を行く人ということになる。

例として松本人志の笑いの構造で考えてみようと思う。

松本人志の笑い、それは「ツッコミの質問に対しての、ボケの間違いを、すでにこう答えるだろうと、先読みしている人を裏切る」という言い方ができると思う。

最初の漫才の例で言えば、
「先日、うちの近所に猫がいましてね」
「ほうほう」
「鳴き声がうるさいんですよ」
「なるほど」
「たぶん、発情期ですね」
「そういえば、うちもうるさいんですよ」
「ほう、君のとこもか」
と、ここまでは一緒である。

だが、ここですでに先ほどのネタを知っている人は、違う動物の鳴き声で来ると予測してしまう。

それは「パオォーンってうるさくて」「そりゃ象だろ!」のような答えだ。しかし、それはどこまで行ってもバリエーションに過ぎない。

それに対して、松本は、
「エーン、エーン、ひどいよー、そりゃないよーって、鳴くんですわ」
「いや、おまえ、そりゃ人間だろ!」
「いや、それが猫なんですよ」
「えっ!」
「だから猫の鳴き声が、ひどいよー、なんです」
「ちょっと待ておまえ…」
となる。

他の動物という間違えを予測している人に対して「普通に人間の言葉を話す」というボケで、さらに裏切っているのである。

こういう形の笑いが生まれた結果、かつては、一般常識の知識があれば笑えたものが、今度は一般的な「笑いの常識」を理解していなければ、笑えなくなってしまったのである。

そして、これが一時期、松本の面白さが分からない、という人と面白いと言った人の違いにつながっている。

また、松本がかつて再三「笑いはベタ(基本)が大事」と言っているのも、基本を知らないと松本の笑いは存在しないことに起因するのである。

さて、そうして松本を理解した人は、自然と同じ思考で笑いを考えるようになる。

つまり、一般的なボケを予測し、さらにその上で答えがどこに行くのかを予測するという、思考回路だ。

そうなると芸人を見る目が「あっ、そっちに持っていったか」「そうきたか」という感覚となる。見る側と見せる側のせめぎ合いである。

これが「お笑いIQ」の高い人のお笑いの見方だと思う。ただ相手のボケを待っているのではなく、自らも答えを用意し、芸人のボケに備えるのだ。

そのうえでどう違いを出すのか、それが現代のお笑いである。

タモリの笑いの根本にあるものとは?

さて、いよいよタモさんである。では、タモリはいったいどんなスタンスで笑いをやっているのか。途中で言ったように、タモさんは大阪の笑いや漫才などの「笑いの枠組み」の外にいる人である。

そのため、松本人志によってお笑いIQを上げた人々は、その流れに沿って次のボケを予測する。しかし、タモさんは「どうして、いまその発言?」ということが多いのだ。

まるで見当違い。笑いの法則に沿っていないのだ。

ここがポイントである。

なぜタモリだけがこんな事になるのだろうか。それはタモリのルーツが「ジャズ」だからだ。

ジャズの本質とは何か。タモリとも交友のあるジャズ評論家の相倉さんは1966年にこう書いている。

「ジャズにも、演奏上の細かい約束ごとがあることはある。が、それらはかならずしも奏者をしばるものではなく、必要な場合にはいつでも破ることができる。いや、それらの約束は、破られるためにあるだといった方が早い

ここで思い出されるのが、タモリが鶴瓶の話を途中でジャマする理由だ。

「あの人はテレビの師匠ですよ。よく話をつぶすので、なんでやねんと聞いた。すると『あんたやさんまは必ず笑いをとるようにしてる。落ちの前につぶすことで、マンネリを防げる。それでダメなやつはきえていく』」

これは、まさに先の相倉氏の話とリンクすると思う。タモリは笑いの「お約束」が分かって無いわけではない。むしろ、誰よりもその「お約束」を理解したうえで、意図して破っているのである。

それがタモリの笑いなのである。深い、深すぎる。

そして、それが見えなくて「あの人は笑いの組み立てが分かって無い」と思っているから、いまだにダウンタウンはタモリを低く見ているのである。

また、相倉さんの話しになるが、相倉さんとタモリは密室芸時代に何度も同じ夜を過ごしている。当時の相倉さんは若手ジャズメンの師匠的な存在だった。きっとタモリも相倉さんの薫陶を受けたはずだ。その前提で話を進める。

相倉さんは60年代にこう書いている。

「ジャズ評論家などではなく、ジャズそのものになってみせたかったのである」

ジャズイベントの司会を数多くこなし、またジャズ評論家であり、若手ジャズメンの理論面を支える存在だった相倉さんだが、実はタモリも彼の影響を受けていた、というが僕の仮説である。

タモリは「ヨルタモリ」でジャズとは何か?と聞かれて、「ジャズという音楽があるわけではない、ジャズな人がいるだけだ」と語っている。

もっと言えば、タモリはこう言いたかったのかもしれない。

おれは演奏者として挫折したが、テレビの世界でジャズをやり続けているぞと。

それは崇高な話でもなんでもない。

例えば「いいとも」に大物歌舞伎俳優が出てきたと思ったら、猫の話だけで終わっちゃったり、急に物まねを始めたり、そういう拍子抜けするようなタモリの変な部分、すべてがジャズなのだ。

終わりに

ただ笑わせてもらうのを待っているだけの人には、理解できないタモリの面白さ。

正直、これを読んでもすぐに理解することは難しいだろうと思われる。
だが、笑いのお約束を学び、トレーニングを積んで意識してタモリを見た時、そこにテレビの中で「ジャズな人」としてスイングしているタモさんの姿が忽然と現れてくるはずである。

以上、長々と書いてしまったが一人でも多くの人にタモリの面白さが伝われば、これに勝る喜びはない。

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