BUDDHA BRAND(ブッダブランド)はなぜ空中分解したのか?

日本語ラップにおいて唯一無二、絶対的に特別なグループがあるとすれば、それはBUDDHA BRAND(ブッダブランド)だろう。いま聞いても色あせない「ヤバい」雰囲気。

これだけのスーパーグループがなぜ空中分解したのだろうか。それは日本語ラップ近現代史の謎のひとつだと思う。

当時『front(フロント)』というヒップホップ専門誌があり、そこにメンバーの一人デブラージが連載をしていた。

インターネットも普及していない頃、ここが貴重な情報源であり、「いまのところMCは3人だけど、まだ影に5~6人いる」「クイーンズにあるブッダ・キャンプでトレーニング積んでいるやつがいる」「そろそろアルバムをボムするぜ」なんて言葉を真に受けて、ずっと待っていたけど、気付けばブッダの活動は休止していた。

一体あの当時、彼らのあいだに何があったのだろうか。

中心メンバーであるデブラージが2015年に逝去したことをきっかけに、残ったメンバーの3人がインタビューで語った内容から「あぁ、そういうことだったのか」と見えてきたことがいくつかある。

それらを繋ぎ合せながらブッダが失速した要因に迫ってみたいと思う。

そもそもブッダブランドはどういう活動をしていたのか

ブッダブランドという存在は知っていても、その全体像を把握している人は多くないかもしれない。

まずメンバーは、DJがマスターキー。MCがNipps、CQ、デブラージの3人だ。

主な活動について年表風にまとめると以下のようになる。

1989年 N.Yで結成
1995年 日本に帰国
1996年5月 「人間発電所」でデビュー
1996年12月 シングル「黒船」を発売
1997年4月 シングル「ブッダの休日」を発売
1997年11月 シングル「天運我に有り(撃つ用意)」※Nippsは不参加
2000年1月 「DON’T TEST DA MASTER」を発売
2000年3月 「病める無限のブッダの世界 〜BEST OF THE BEST(金字塔)〜」を発売
2006年 ILLMATIC BUDDHA MC’Sとして『TOKYO TRIBE2』の主題歌「TOP OF TOKYO」を発表

この「TOP OF TOKYO」が3人での最後の活動となった。

N.Yでの結成から帰国まで

まずメンバーそれぞれの出会いについて。

マスターキーと、CQは小学校の時から同じ地元(大田区)で学年も同じだった。やがて二人は「新天地で何かつかもう」という想いを胸にニューヨークを目指した。

二人はルームシェアをしながら暮らしていたが、マスターキーが次第にホームシックになり、それを解消するために「日本のみんなが見てるかも」と思って、当時『ズームイン朝』でN.Yからの中継をやっていたのでそれに毎週通っていた時に、照明をやっていたのがNippsだった。

ここでマスターキーがNippsと出会い。当CQに紹介して、3人が出会う。そして、マスターキーがたまたまデブラージが働いていたレストランに行き、「ヒップホップとか好きですか?」とデブラージが声をかけたことをきっかけに4人は出会った。

当時、デブラージは親の仕事の関係でN.Yに住んでおり、Nippsも同じく親の仕事の関係で日本にいた時期もあれば、アメリカにいた時期もあった。

二人は同じ駅を使っていたが会ったことはなかったという。

こうして異国の地で揃った4人の若者たち。一番年下だったのはデブラージで残りの3人はほぼ同年代だった。

最初はただ集まっていたが、デブラージが一時帰国し、当時の日本語ラップの現状を伝えたところ「じゃあ、俺たちも何かやろう」と「うわさのチャンネル」を結成。

当初の役割分担ではマスターキーがDJ、NippsとCQがラッパー。デブラージは裏方でトラックメーカーの予定だった。

しかし、Nippsが書いたわずか四小節のリリックを見て、彼は驚き、そして「俺もラップをやる」と言いだしたという。

当時の心境についてデブラージは連載の中でこう綴っている。

「本当に日本語でこんなにカッコイイ詩を書ける奴が居るんだって思ったよ。俺のルーツは日本語ラップに関してはNippsだ。彼の詩のイルさにやられて、俺は詩を書き始めた」

そして、デブラージが「Funky Slice」というスタジオのインターンとして働き始めたことから、4人でレコーディングを行う。最初の曲は「Funky Methodist」だった。

この頃の4人の関係性について、CQはこう語っている。

「NYにいた時は、一緒にいる時間も長かったし、本当にいろんなことを話した。週に1〜2回はみんなで集まって、ブッダが形になる前から、ああでもないこうでもないって。当時、向こうでラップしている日本人なんて俺たちしかいなかったし、すごく結束は強かった」

こうしてブッダブランドとしての音楽を確立する一方で、連絡係でもあったデブラージが一時帰国した時に日本への売り込みを行う。

そのデモテープを受け取った一人が、ECDだった。

さんぴんキャンプは「ブッダありき」だった?

いまでは伝説となったイベント「さんぴんCamp」の直前に「フロント」のインタビューでECDは、さんぴん開催の経緯をこう語っている。

「最初はとにかくブッダだった。彼らが一時帰国した時に絶対レコーディングしたくて、でもシングルはきつそうだったからオムニバスにしようって考えて、でもただのオムニバスじゃつまらないからサントラってコトにして映画も作っちゃおうと」

その流れで日比谷野外音楽堂を抑えて、ECDが出演者を決めていった。

トリを務めたのはもちろんブッダブランドだった。

一方でECDは自らの所属するカッティングエッジにブッダブランドを売り込み、すぐにレコーディングの段取りを進めた。当時のカッティングエッジの担当者の本根さんは、最初にデモテープにあった「FUNKY METHODIST」と「ILLSON」をもっとクリーンな音で録り直したい、という話があり、スタジオをおさえたという。

すると、当日デブラージは

「あの、オルガンバーってすごい当たってるんでしょ?フリーソウルとか。須永辰緒さんとか、橋本徹さんとか、あのへんのおしゃれなピープルに受ける曲を思いついたんすよ。今日、それやります」

といって流した曲が「人間発電所」だったという。

この「人間発電所」がヒットをして、次にデブラージが狙ったのが「J-WAVE」だった。

彼は本根さんに「J-WAVEでかかるようなラップをどうしても俺は作りたい。まだラップはアンダーレイト(過小評価)されている」と語ったという。

そのために彼らは合宿を行った。平塚や山中湖で合宿をしたが、NippsとCQが脱走するなどして、上手くいくことは無かった。

なぜNippsは脱走したのか。「合コンのため」と語っているが、その根底にあったのは「ラップは仕事じゃない」という感覚だった。

「俺は実は趣味の延長、ぐらいの気持ちだった」と当時を振り返る。

だからこそ妥協もせずに「毎日練習してた。個人練もグループ練習もひたすらもう」という日々を送っていたが、帰国後のデブラージは、もっとカラオケで歌える曲を、という意識で取り組み、Nippsにプロ意識を持つように呼びかけたという。

それに対してNippsは「プロモアマもあるかー! ぐらいに思っていて。どれくらいカッコいいラップできるか、しかアタマになかった」

と振り返る。だが、さんぴんを終えた彼らは、異常にチヤホヤされた。当時ユウザロックが「留守電何百件とか頭おかしくなるよ」という日々を送っていた中で、当然ブッダブランドも特別扱いされた日々があっただろう。

だからこそ、デブラージは合宿をやりたがった。その意図について本根さんは

「ニューヨークのモードに戻したいんだよね。山手線乗ってスタジオ行ったりとか、日常の中からスタジオ行くんじゃなくて、ニューヨークの時のハングアウトしている感じでやりたいんだろうなって俺はわかっていて。そのための合宿なんだろうなって」

と語っている。

あのN.Y時代の4人で煮詰めていく感じを再現するために、デブラージは合宿を実施し、「ブッダの休日」をつくったが、ラップを仕事だと思っていなかったNippsは合コンのために脱走。やがて溝は深まっていった。

https://www.youtube.com/watch?v=6nrLWE-TKfo

そして、それが決定的になったのが、1996年、年末の「鬼だまり」だった。

「鬼だまり」での衝突の真相

鬼だまりで起きた事件とは、ブッダブランドの出番になったらNippsが来て、ステージの上でデブラージがNippsにキレてしまった、という出来事のことをいう。

なぜデブラージは切れたのか。その理由について「フロント」の連載では、

本当はあの日は今までにやったステージで一番すごい、ライムスター級のステージを見せようと俺は企んでいた。俺のヴァース、CQのヴァース、サビ、すべての音が変わる。そのために練習してステージに臨む筈だった……。そんな状態で突然訳も分からずに、誰かが来ても、当然ステージはまともにこなせない。また、緻密に練習してきた俺達は納得できなかった。

と語っている。一方のNippsは

いやぁ、俺もあの時は楽屋に顔出すだけのつもりだったんだけれど、みんなに「デミさん(Nipps)も出なきゃ」って言われて、ついステージに上がっちゃったんだよね。

とその場のノリでステージに上がってしまったことを告白している。

その衝突の結果、Nippsが「俺のせいで何かが進まないなら、先に進めてくれ、その方が楽だ」と告げたことから、デブラージが「フロント」で「ブッダブランドは解散していない。しかし、ブッダブランドはみんなが予想していた通り3人だ」とNippsの脱退を宣言する。

そして、「天運我に有り」でNippsがいないブッダブランドを聞いて、無敵の3本マイクの意味を多くのリスナーが思い知ったのだ。Nippsの不在はそれぐらい大きかった。

その後のブッダブランド

Nipps脱退後もデブラージはグループの中心になってまとめようとしていた。

しかし、彼の職人気質が悪い方に転がっていく。

CQは

日本に帰ってきてからは、ヒデ(デブラージ)はいろんなテーマを持ち込んだけど、うまくいったことないでしょ。そのうちテーマしばりが強くなってきて、スタジオにダメ出しされにいくのかみたいな時期もあった

と語っている。本人は「俺のブッダをしっかりまとめてやってやる!!」て理想が有ったから、手抜きな仕事を俺は許せ無かった。

と振り返っている。

こうして次第にデブラージは「面倒くさいやつ」となり、CQは1998年に「キエるマキュウ」をMAKI THE MAGIC、ILLICIT TSUBOIと結成。

マスターキーはDJの仕事が忙しくなり、ブッダブランドとしての活動は休止状態となる。

2000年に「DON’T TEST DA MASTER」、「病める無限のブッダの世界 〜BEST OF THE BEST(金字塔)〜」を発売。

その6年後の2006年にILLMATIC BUDDHA MC’Sとして『TOKYO TRIBE2』の主題歌「TOP OF TOKYO」を発表するが、「いつかまた全員で」という想いがかなわないまま、デブラージは2015年に病気で亡くなってしまった。

デブラージとNippsは不仲だったのか?

ブッダブランドが空中分解してしまった原因はデブラージとNippsの関係にあったのは確かだ。完璧主義で仕切り屋のデブラージと超マイペースなNipps。その衝突は必然といえる。

だが、一方で二人の信頼関係はあつかった。

若い頃からあいつはいつも俺の横にいて、俺の顔を覗き込んでは「デミさん、何考えてるんですか?」って聞いてくる感じだったからさ。

だから、日本に帰ってきた頃、俺は寂しかったんだ。みんな遠くに住んじゃって、集まる場所もなくて、だんだんと密にコミュニケーションが取れなくなっていった。

実際、俺は嫌われていたのかな、本当は仲悪かったのかなって、モヤモヤしていたこともあったけれど、俺が狂っていた頃に、まともに相手してくれたのは寺ちゃん(寺西)とヒデ(デブラージ)くらいだった。狂っていても、そこが良いんだよって言ってくれた。

また、カッティングエッジの本根さんは、

デブラージは汗をかきかき、当時俺の働いていたCutting Edge事務所に来ては、話すことはNIPPSのことばかり。クラブ界隈で聞いた武勇伝やら噂話やら、NIPPSの話をするときのデブラージは、面倒くさい人なんですよ、とか言いつつ、すごく楽しそうだった。

と当時を振り返る。

そう、二人は歩く速度が少し違っただけで、深い信頼関係によって結ばれていたのだ。

Nippsは「こんな事を俺が勝手にいうのもなんだけど、ブッダの中じゃ俺が1番ヒデに近かったからね」

と語っている。Nippsに憧れてラップを始めたデブラージ。俺がブッダを引っ張ると一番年下なのに無理をしたが、CQの言うとおり「俺らは、自然に結成されたし、誰も四人をまとめられなかった」のだろう。

「友達はみんなライバル」というD.Lの追悼ラジオでNippsがポロリと言った言葉を思い出す。

ライバルがいて、たがいを高め合った時、生まれる名曲がある。もちろん一人で勝手に作る人もいる。だが、ブッダブランドは4人がいて、初めて生み出されるケミストリーがあったのだろう。

もしもNippsが働き者でブッダブランドがもっと曲を作っていれば、と惜しむ気持ちもある。

でも、働き者があんなリリックを生みだせるはずはなく、あれはああいう人だから作れたラップだ。

そうなると、Nippsが働き者だったらというアナザーストーリーは成り立たないのだ。

生まれなかった曲を嘆くのは止めよう。それよりも繰り返し聞こう。

何度聞いても色あせない不朽の名作「人間発電所」を。

この曲を超える日本語ラップはいまだ生まれていない。

ブッダのベスト盤。聞きたい曲はここに入っている。

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