『断片的なものの社会学』~「こんなはずじゃなかった」日常を生き続ける

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また名著に出合ってしまった。『断片的なものの社会学』だ。

 

2016年は「かなわない」、「相倉久人に聞く昭和歌謡史」も凄かったが、それに続いて、当たりの本だった。素晴らしい。

 

じゃあ、何が素晴らしいんだろう。これが上手く説明できない。それはタイトルの通り、この本の中身が断片的だからだ。

 

短いと、5行ぐらいのエピソードがポロポロと書かれている。読者はまるで焚火のための薪を拾い集めるように、それらの逸話を集めながら読み進めていく。

 

「ジャーナリズムの言葉は10年後に読んで『古いな』と感じるぐらいでいい」と誰かが言っていた。そうであればあるほど「今」を捉えているというのだ。それと同じことが本書にも言えるかもしれない。どの本よりも「今」を捉えているように思えるのだ。

 

この本には、いくつも、いくつも印象に残る話が出てくる。それを紹介しようと思う。

 

例えで出てくる架空の夫婦の話

 

例えば、架空の話として筆者が語る物語がある。

 

ある若い夫婦が旅行にいく。心配性の妻が空き巣対策のために、旦那に内緒で家の生活音を録音しておき、出かける時に流しておく。電子レンジを買い変えよう、など他愛のない会話が流れる。部屋の明かりもつけておく。

 

しかし、二人は事故に遭い、死んでしまう。

 

主を失った家には、誰もいないけど、二人の静かな会話や生活する音がエンドレスで再生されている。遺体は発見されず、だれも二人がいないことに気付かない。

 

これは「語り手」が失われることで声が「形見」となる話しである。

 

なんだろう、このロマンチックな感じ。素晴らしい物語がある。こういう例え話がポロッと出てくる。

 

また、ある時はゲイの人に「君ってゲイだよね」と言ってしまった時の話が出てきたり、また、別の時には大阪の川沿いを夜中に歩いていたら、一人の老人が近づいてきて、それが全裸で風呂桶を持っていて「今から考えれば、全裸で銭湯にいくことは、これ以上ないほど合理的だ」と語る。

 

脈絡があるようでない断片がいくつも出てくる。

 

一番印象に残ったのは、結婚や子供がいないことについて語った以下の文章だった。

 

ある人が良いと思っていることが、また別のある人びとにとっては暴力として働いてしまうのはなぜかというと、それが語られるとき、徹底的に個人的な「<私は>これが良いと思う」という語り方ではなく、「それは良いものだ。なぜなら、それは<一般的に>良いとされているからだ」という語り方になっているからだ。完全に個人的な、私だけの「良い物」は、誰も傷つけることもない。そこにはもとから私以外の存在が一切含まれていないので、誰を排除することもない。しかし、「一般的に良いとされているもの」は、そこに含まれる人びとと、そこに含まれない人びとの区別を、自動的に生みだしてしまう。
「私は、この色の石が好きだ」という語りは、そこに誰も含まれていないから、誰のことも排除しない。しかし、「この色の石を持っている人は、幸せだ」という語りは、その石を持っている人と、持っていない人との区別を生みだす。つまりここには、幸せな人と、不幸せな人が現れてしまう。

 

ここが一番印象に残った。

 

ラッパーや詩人、ジャーナリスト、なんでもいいが「今」を拾ってきて、作品に昇華する職種の人たちがいる。

 

でも、誰も芯を捉えてないように感じる。現代の不自由さ、歪み、間違った社会。それらを淡々と描き出す本書こそが、今を描いているように感じる。強く主張するのではなく、断片で現代を表現しているのだ。こんな凄い本、久々に読んだ。
最後にもう一つ引用。

私たちのほとんどは、裏切られた人生を生きている。私たちの自己というものは、その大半が「こんなはずじゃなかった」自己である。

浜崎あゆみが「いつか最高の自分に 生まれ変われる日がくるよ」と歌っていたが、そんな日は来ない。年齢を重ねると、よく分かる。僕らはずっと「こんなはずじゃなかった」日常を生きるのだ。

 

そんな時に僕が思い出すのはタモリが鶴瓶に言ったという「いいともに出るとジャブが効いてくる、ジャブを打ち続けろ」という言葉だ。
僕らは見栄えのするアッパーで世界を変えることはできない。ジャブを打ち続けるのだ。もっと良い、居心地のよい社会を作るために、僕らはジャブを打たなければならない。

 

本を読みながら、そんなことを考えていた。

 

現代にモヤモヤを感じている人に、おすすめの一冊だ。

 

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