読み返すと分かる『風の歌を聞け』『1973のピンボール』の真実

Kindleで『風の歌を聞け』『1973のピンボール』がセールになっていたので、購入した。

中学生の時に読んだきりだったが、いま改めて読み返すと、初期作品のみが持つ瑞々しさと同時に、後にメタファーの名手となる村上春樹のクオリティからすると、けっこう粗が見える仕上がりになっている。

ちなみにメタファーとは、だんだん哀しくなる気持ちを「カーテンから差し込む光が次第に弱くなっていく」みたいな感じで、別のものに置き換えること。

そのまま「じゃじゃーん」と登場すると、きついおっさんに着ぐるみを着せるようなものだ。

その例えでいくと、この2作品は着ぐるみから首が見えている感じ。あ、中の人はおっさんだなと分かるのだ。

本人もこの2作については「未熟な作品だと思っていたから」という理由で2015年まで翻訳許可を出してなかった。もしも先に出していたら、また世界の評価も違っていたかもしれない。

だが、だからこそ、この2作は特別だといえる。なぜ本人が未熟といったのか、その辺りを書いてみようと思う。

村上春樹はメタファーで何を隠していたのか

結論からいうと、この2冊の本は「妊娠して自殺した彼女の喪失感を動機にしながら、メタファーを使って探り探り書いた小説」である。

もしも、自分の彼女が妊娠して自殺したら。

死ぬこと以外かすり傷なんて言っている人がいるが、死んだらどうしようもない。その罪悪感は半端なく、一生罪を背負って生きようと思うだろう。だが、その重みに耐えきれる人間などいない。

どこかで吐露しなくてはならない。教会の懺悔室が一般的ではない日本では小説という手段を使って懺悔するのは有効な方法となる。書くことが癒しへとつながるのだ。

だからといって「僕の彼女が自殺しました。僕はすごくびっくりして哀しくなりました」では小説にはならない。感情や出来事を「メタファー」という着ぐるみに入れて登場させないといけないのだ。

そのためには、ぶどうをつぶしたものがワインになるような時間的な経過と、小説を書くという技術が必要になる。

それが風の歌を聴けの冒頭にある。

「8年間、僕はそうしたジレンマを抱き続けた。----8年間。長い年月だ。」

につながっているのだ。つまり、8年前からずっと書こうと思っていたが、上手く形にできず、最初に「完璧な文章など存在しない」というエクスキューズを入れることでようやく世に出せたのだ。

これは友達の話なんだけど

よく恋愛相談などで「僕の友達で好きな人に告白できない人がいて」と言いながら、実は自分の話というのがある。「それ自分の話だろ」と言っても、たいてい認めない。

「風の歌を聴け」ではその手法が使われている。僕はバーでお酒を飲む男であり、親友の鼠の方は彼女が妊娠し、そして彼女は堕胎する。「これは鼠の話なんですけどね」と書きながら、自分の話をしているのだ。

もう一つの『1973のピンボールでは、彼女の故郷の駅には犬がいる話を書いてから、ネクタイをして革靴を履いて駅を訪れたエピソードがある。これは葬式だろう。死因は自殺となる。

妊娠、自殺、葬式。それをちりばめながら物語は進行していく。

そして、小説を書きたいといいながら1行も書けない鼠もかつての自分だろう。

つまり『風の歌を聴け』において、村上春樹が考えたのは、自分を鼠と僕の2つに分けて、鼠をかつての自分にしたのだ。彼女が妊娠して、誰にも相談できずに、小説が書きたいと言っている男と、色々と分かっている風で実はわかってない人間、僕。

身勝手な男

罪の意識で書き始めた作品において、自分をよく描くはずはない。僕ならひどいやつに書く。こんなダメなやつですと。

『風の歌を聴け』では、一つ象徴的なシーンがある。

鼠の彼女が「妊娠して手術をした」と察しながら、会いたいと言われて、シャワーを浴びてから彼女に会いに行くのだ。女の人と会う前にシャワーを浴びるのは「やれるかも」と思っているからで、手術を察した気持ちとは相反する。それは手術した後でもやれるかも、という無知や軽い気持ちを表しているのか、とりあえず、あまり良い話ではない。

だが、わざわざ書いたということは、それに近いなにかがあったのだろう。今も後悔している行為や言動が。

「私とセックスしたい?」
「うん。」
「御免なさい。今日は駄目なの」
僕は彼女を抱いたまま黙って肯いた。
「手術したばかりなのよ。」
「子供?」
「そう。」

バーでの会話の空疎なやりとりと比べて、この部分のリアルさは飛びぬけている。だからきっと近いことがあったのだろうと思う。

そういう「洞察力が高いようで、実は肝心なところが抜けている」という自画像は、その後の作品でも何度も登場する。

『1973のピンボール』の3つのメタファー

『風の歌を聴け』から、約1年後に発表された、1973のピンボールは「前回は短い文章をつなぎ合わせて、息継ぎばっかりしてたから、一気に書こう。あとメタファーをちゃんとやろう。でもテーマは同じで」だと思う。

ただ、1つ加わったのが「いつまでもこのテーマでは書けない。どこかで区切りをつけないと。あと、やっぱり1本書いたせいか、すっかり過去のこととして自分の中で風化しつつあるなぁ」という感情だと思う。

それを受けて、この作品で登場するメタファーは、双子、配電盤、ピンボールマシンとなる。

双子は出来事を受けて「引き裂かれた自己」だろう。忘れて前に進みたい自分と、それはダメだという自分。どっちも本当の自分だから、双子を登場させて、自分は「え?双子と住んでるんですか?」「はい、そうですけど」みたいな感じで、飄々としている。苦悩する自分は両サイドにいるので、真ん中はフラットでいいのだ。

配電盤は、機械ではなく、機能で考えるべきだろう。「誰かと誰かをつなぐ機能」が古くなったので、それを交換し、ダムに捨て、最後に祈りをささげるのだ。つないでいたのは、死者と自分だろう。

ガラケーからスマホに変えるように、次のステップに進む時が来たのだ。

だが、それでいいのか。一方的ではないか。ちゃんと最後に挨拶をしないといけない。

そこで登場するのが「ピンボールマシン」だ。

ようやく探し出したピンボールマシンを前にして、彼はゲームをせずに、会話をする。

それはシャワーを浴びて会ったのに、何もせずに帰ったことをちょっとマシンにしただけで、やりとりは上で取り上げたものと、ほぼ一緒だ。

ゲームはやらないの?と彼女が訊ねる。
やらない、と僕は答える。

ここでマシンとの会話を終えると、双子は去る。引き裂かれた自己を回復した。おしまい。

大枠はそういうことだと思う。

小説とは「物語でしか語ることができないことを語るための手段」だ、という定義をベースに考えると、この2作品はあまりに生過ぎる。色々と手を尽くしているがドキュメントに近い。本人が「未熟な作品だと思っていたから」と語ったのもうなづける。

でも、結局、このテーマはこの2作品では完結せず、「100パーセントの恋愛小説」という本人がつけたキャッチコピー通り、架空の街で壁を抜けたり、ジョニーウォーカーが登場したりせずに、現実に起こりうることだけで書いた『ノルウェイの森』でようやく次のテーマへと移ったのだ。

村上春樹のデビュー作にはいくつかの伝説がある。
・神宮で野球を見ていたら雷に打たれた衝撃みたいなものを受けて、深夜にキッチンで書いた。
・誰にも影響を受けていない日本語の文体を確立するために、最初に英語で書いて、それを日本語に翻訳した。

いずれも魅力的なエピソードだが、でも、小説を仕上げるのは大変な作業である。天啓ぐらいじゃ書ききれない。その書くための動機はなんだったのか。何が書きたいことだったのかについては一切語っていない。本人が語ることはないだろうし、読み方だって人それぞれだ。

Kindleのセールは、もうすぐ終わるが、電子書籍で手軽に読めるようになっていたので、気になった方はぜひ読んでみてはいかがだろうか。

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