さいきん「男はつらいよ」をアマゾンプライムビデオで見返している。
その時にふと記憶の奥にあった思い出が蘇ってきた。
俺、寅さんに会ってるーー。間違えない。
ということで、今日はその話を書いてみようと思う。
まずは当時のことを書いてみる。
ボクは2歳から高校2年生まで、渋谷区の幡ヶ谷という町で暮らしていた。
親の職場が新宿だったため、新宿から2駅という立地を理由にこの町を選んだのだ。
渋谷区といっても、外れの方であり、多くの人が想像するような派手さはなく、遊歩道と甲州街道を挟んだ2つの商店街があるだけの、のどかな小さな町だった。
住んでいたのは、駅から徒歩5分ぐらいの笹塚寄りの場所で、大きめの道をぐるりとカーブするように歩くと、すぐに駅についた。
普段はその通りを使うが、この道の他にもう一つ駅にいくルートがあった。
そこは車が通らないほど細い道だったので、子供だけで歩くときはよくそちらの道を通っていた。
うちの方から行く時の入り口はひっそりしていて、途中に質屋があり、昔その質屋の前でタモリが「世にも奇妙な物語」の撮影をしていた。
もう30年ぐらい前の話だ。
出口のあたりには酒屋があり、その店主が行くたびにアル中になっていき、心がざわざわしたら、そのうちに居なくなって、その後は年老いたおばあさんが店番をしていたが、買い物をするといつもいっぱいお釣りをくれた。ボケていたのかもしれない。ボクはお釣りが多いことは指摘せず、そのまま受け取って帰った。
そんなお店がある細い道の話だ。
話しかけてきた四角い顔のおじさん
それは僕が小学校2年生ぐらいの時、仲の良い友人と、その細い道を歩いていた時だった。
見知らぬおじさんが、腰をおろし目線を僕らの視点まで下げて二人の頭に手を置いて、
「ぼうず、元気に遊ぶんだよ」
と声をかけてきたのだ。
僕らは驚いてしまって、返事をしたか、しないか覚えてないけど、とにかくびっくりした記憶だけが残っていた。記憶は断片的で、そのおじさんが、どうやって立ち去ったのかも覚えていない。
そして、ある日のこと、父親が「男がつらいよ」のビデオを借りて見ていたので、ちらりと画面を見ると、あの時のおじさんが写っていた。
「あ、僕このおじさんに声かけられたよ」と大きな声でいうと、母親が「どこで?」と聞くので、「駅に行く時の細い道!」といったが信じてもらえなかった。
親に信じてもらえなかったこともあり、この思い出はぼくの中でいつの間にか記憶の底に沈んでいた。
だが、最近「男はつらいよ」を見ていて、ふと渥美清のwikiを見たら、俳優になったきっかけは警察に軽い罪で捕まった時に「お前の顔は一度見ると忘れないから、すぐにわかった。こうして捕まるよりも役者になった方が良いんじゃないのか?」といわれたことだったという。
そう、あの顔は見間違うはずがない。やっぱりあの顔は渥美清だったのだ。
そして、同時に思うのは明らかにプライベートなのに、まるで寅さんと同じ言動、行動を取ってしまう、渥美清という役者の「業」のようなものである。
役のイメージが強すぎて、個人までがその役に見られてしまう。そういう人は多いけど、渥美清ほど、その生涯を役に捧げた人はいないだろう。
一体小学生の僕らにそう声をかけることに、どれだけの意味があったのか。
子供が親に言って巡り巡って自分の評判になる。そんなことは考えなかっただろう。
きっと無意識だったのではないだろうか。細い道で子供が二人歩いて来る。周りに大人の姿はない。その瞬間、頭に浮かんだのは寅さんが言いそうなセリフ、「元気に遊べよ」となり、思わずしゃがんで声をかけてしまった。そこに役との境界線なんてなく、完全に同化していたのだと思う。
ふと思う。そんな人生は幸せだったんだろうか。
渥美清自身もなんども自問自答しただろう。そして、晩年のインタビューで出た言葉のその結論だと思う。
「必要とされた人生だった。俺みたいなやつが普通の職場でまともに働ける訳がない。そんなやつがずっと必要とされた。それで良かったんじゃないだろうか」
その言葉はなかなか深い。
自分のやりたいことを自由にやる生き方もある。なんならそれを良しとされたりする。
でも、実際にはやりたいことなんてそんなにはなく、それよりも誰かの要望に応え続ける人生を選ぶ人も多いだろう。つまり、受け身の仕事だ。
その場合、その仕事の終わりは「お前なんか必要ない」といわれる事だ。
少なくとも渥美清は最後まで「必要とされた」のだ。それで良かったではないだろうか。
あの時、渥美清はなぜ声をかけてくれたのか。そんなことを幡ヶ谷を歩きながら思い出していた。
それにしても、アマゾンプライムビデオは寅さんが全シリーズ揃っている。月400円なので、気になった方はぜひ。