オードリー若林が過小評価されているのでその凄さを3つのポイントで解説します

2020年現在、オードリー若林が絶好調である。

けっこうテレビで見るなと思っていたら、2020年の上半期出演本数ランキング2位を獲得するという偉業を達成している。毎日テレビに出るいわゆる「帯番組」を持たないのに2位というのは、凄いことである。

その一方で、彼のどこが凄いかについては、あまり世間で認知されていないように思える。なんとなくテレビに出ている。そんな印象の人も多いのではないだろうか。

見た目がかわいい、清潔感がある、というのもポイントだと思う。

だが、それだけではない。彼にはほかの芸人には無い、特別なポイントがいくつかあるのだ。

私は若林という芸人について語る場合、3つのポイントがあると思っている。

1、「フリ」の能力が高い
2、自分の言葉で話す
3、短編小説のように情景を語る

この3つを道しるべに、若林という芸人がなぜ特別なのかを書いてみたいと思う。

「フリ」こそが大事

最初の特別な能力である「フリ」について説明しよう。

若林自身も笑いについて語る時に「あのフリが」や「フリの部分で」など、「フリ」というフレーズを良く使う。フリは若林のお笑い教科書第1ページ目に書かれる言葉だ。

このフリの説明について、たまたま本人が2020年6月13日のラジオで春日に説明していた例があるのでそれを紹介したい。

「こないだ品川の駅で大学生ぐらいの若者の集団がいてさ、こっち見て何か言っているのよ。そのうちの一人が近づいてきて声をかけてきてさ『あの~イカ二貫って言ってもらえますか』と言われたのよ。千鳥さんの。で『いや、それ俺のじゃないのよ』って言ったことがあったのよ。でもここで彼がフリとして『大ファンなんですよ』って一言言ってから『イカ二貫って言ってもらえすか?』と言えば『いや、俺のじゃないわ!』と言えるのよ。これがフリなのよ」

という即席のフリ講座があった。

オードリーに千鳥のネタを言ってもらう、というボケだけでは笑いは生まれず、その前に「大ファンなんです」というフリを入れることで、「いや、ファンじゃねぇじゃないかよ!」というツッコミができて笑いが生まれるのだ。

つまり、フリとは一回違う方向に振ることで笑いを生み出す手法のことである。

これは明石家さんまもけっこう頻繁に使う手法である。

さんまが「いや、そんなんで俺がびっくりするわけないやろ」と言った後で、「ワォ!」と驚く。

料理が出てきて「どうかな、たいして美味しくないでしょ」と言ってから食べて「美味しい!」という。こちらは、くりーむの有田が頻発に使う手法だ。

お笑いの教科書の基礎の基礎であり、スラムダンク風に言えばダンクではなく、レイアップ。地味だけど確実に点を取る方法だ。

もしも芸人の五角形のグラフがあるとすれば、若林はこのフリのスキルが圧倒的に高いのだ。

このフリについて「ヒルナンデス」で共演するウッチャンナンチャンの南原さんから若林が言われた言葉が、彼の方向性を決定づけたと思う。

それは「フリとオチでは、オチで笑いが起こるからみんなオチに注目するけど、実はフリが大事で、どうフルのかってことを追求すると笑いの幅が広がる」という趣旨の言葉を聞いて、ひどく感動している。

言葉というのは、いくら素晴らしい名言であっても、自分の中に共鳴するものが無いと感動しない。

南原さんのその言葉に感動した若林が思ったのは、発見ではなく、フリこそが大事、ということの再確認だったのだろう。ダンクのような派手さはないものの確実に笑いが取れるフリ。彼はこの「フリ」という武器を手に躍進していく。

その前に、そもそも若林はどのようにフリの能力を磨いたのだろうか。

そのことについて書いてみたいと思う。

春日ボケていない論争

2020年1月、オードリーのラジオで、若林が「春日はボケていない」と主張した時があった。

そもそもボケとは何か。それは「わざと間違うこと。そしてそれが面白こと」である。

ボケ=面白いこと、みたいなイメージがあるが、そうではなく、わざと面白い間違えをして、ツッコミがそれを訂正して笑いが起きる。それが漫才の基本構造である。

ナイツのヤフーをヤホーと間違えるボケが一番分かりやすいだろう。間違えているけど、確かに「Yahoo」はヤホーと読める。間違えているけど、面白い。

そう考えた時に、春日はボケてはいない。若林がその論争の時に言ったのは「春日は面白いけど、変な言い方をしているのとアクシデントが起きているだけ」なのだ。

最近のラジオでもボケを「それはウソだから」と語るなど、春日は根本的にボケというものを把握していない。

そんな人とコンビを組む。これは苦行である。ボケというのが、笑いの弾丸だとすれば、春日はずっとピストルを腰にぶら下げて突っ立っているガンマンなのだ。

そんな男と同じ舞台に立つ。待てど暮らせどボケは出てこない。卵を産まないニワトリを飼っているようなものだ。だが、春日という存在は面白い。スター性もある。

そんな若林がたどり着いたのが、春日にピンクベストと七三分けというキャラクターを付与し、キャラ芸人として存在を際立たせ、自らはフリの技術を向上させることだったのである。

ラジオでよく聞かれるパターンの一つに以下のようなやり取りがある。

若林「生意気だなって言われるかもしれないけどさ。ずっとテレビ局でご飯食べているから飽きてきてさ」

春日「生意気だな」

この●●って言われるかもしれないけどさ、というのがフリであり、同時にツッコミの答えであって、それを春日が「●●だな」となぞるだけで笑いが起こるのだ。ボケれない春日のための最大級に丁寧なフリである。

このボケない男と一緒に笑いを起こす、という難題を20年近く繰り返してきたからこそ、若林は、相手が答えるだけで笑いが起こるフリの技術を習得したのだ。

その光景は私には、野球のバッティングコーチの横でしゃがんでボールを投げる人を思わせる。コーチはバンバンと外野にヒットを打ち、意気揚々と「ほら、どうした!」と選手たちに声をかけている。だが、実はコーチがヒットを打てる陰で、しゃがんでボールを投げる人の正確さことがそのヒットの秘訣なのだ。この人が地味だけど、正確に打ちやすい位置にボールを投げ続けているのだ。来たボールを打つコーチが春日で、ボールを投げるのが若林だ。

春日というスター性と可能性だけを持った男と組んだことで最強のフリを身に着けた若林は、もはや「無敵のフリ師」といえるだろう。

そして、実は打ちやすい位置にボールを投げる技術があれば、バッターは春日でなくても、誰でもいいのだ。たとえ素人でもバットにボールを当てられる球を投げることができる。つまり、若林がいれば素人でも笑いが確実に生まれるのだ。

その結果、「素人がメインで、ちょっと面白いか分からない、展開が読めない」という番組で若林がファーストチョイスで起用されるのだ。

激レアさんを連れてきた。おどぜひ、そして、アイドルとしては異常なほどお笑いIQが高い集団である日向坂の番組、日向坂で会いましょう、も若林のフリがあって成立している部分があるのだ。

これからテレビで若林と素人が絡む番組を見る時は、ぜひその点に注目してみてほしい。

自分の言葉で話すということ

次に若林の言葉について読み解いてみたいと思う。

人には2通りの人間がいる。誰かから聞いた情報を話す人と、自分の言葉で話す人だ。

そして残念なことに誰かの言葉で話す人の方が世間の受けは良い。特に若い時にはそうだ。

若者の言葉は切れ味はあるけど、軽い。そこに重みを付与するのが、誰かの言葉を話すことなのだ。

「アインシュタインも言ってましたけど」といえば、それはただの若者の言葉ではなく天才数学者の言葉になる。

一方で自分の言葉で話す人は、若い時は苦労が絶えない。その言葉は軽く、紡ぎだすスピードもゆっくりだからだ。だが、その言葉に耳を傾ける人が増えた時、その状況は逆転する。

若林は「社会人大学人見知り学部卒業見込」と「ナナメの夕暮れ」という2冊の本で、その状況を変えたと思う。

この2冊で彼は、自らのファンの中心となる層を生み出したのだ。その玉は世間の人には見えないほどの小さな玉かもしれない。だが、雪だるまを作る時の最初の小さい玉のように、彼がそこで投げかけた2つの小さな玉が大きくなり、若林の支持層は増えたのだと思う。

彼が2冊の本で投げかけたのは、世間の当たり前に対する「違和感」の表明だった。

それが一番象徴的なのが「幸せ」についてだったと私は思っている。

私は若林と同じ1978年生まれで、今年42歳だから分かるが、若い時の飲み会がつまらないのは、飲み会は「おじさんのため」のものだからである。

そして、世間と呼ばれるものや当たり前と言われるものも、その時に決定権を持っている中心的な層である40~50代ぐらいの人の価値観でしかないのだ。

だから、僕らの世代が学生時代にテレビで見てきた幸せは、すべて「バブル世代」の価値観、つまり金を使えば使うほど幸せだとされる世代の価値観だったのだ。

高い料理屋に行き、美味いごはんを食べる。広い家に住んで、高い車に乗る。高いワインを飲んで、ゴルフをして寿司を食べる。

でも、それは本当に幸せなのだろうか、というのが、若林がこの2冊で表明したことのように思える。いや、それはその次に出された旅行記に見せかけた自分語りの本「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」においても(タイトルで分かる通り)根底に流れるものは同じだと思う。もちろんはっきりとは言わない。世代間格差を語るでもない。ただ、彼は違和感を語っているだけだ。

だが、そこにはバブル世代の価値観を押し付けられながらも、自分なりの幸せを模索して葛藤する氷河期世代の彼の姿が見て取れるのだ。

若林は、2020年8月のラジオで「お金を使わないで楽しいことをすると、ざまあみろと思う」と発言し、春日が「え、何に?」という聞くと「経済に」と答えている。かつて若林が自ら運営していたブログ「どろだんご日記」の有名な一節「やれやれ資本主義」というフレーズにもあるように、経済や資本主義に対する異議申し立てが、そこには存在するのだ。

それをもっとも象徴しているのが、以下の文である。

春日は売れない時代から幸せだった、という話の後で彼はこう綴っている。


その頃には、春日のそういう精神性は羨ましいを通り越して、ぼくの憧れになっていた。なぜかというと、テレビに出てお金をある程度もらえば幸福になれるとぼくが信じていたからだ。

確かに、前より生活に困ることはなくなった。でも、幸福感はさほど変わらないんだ。春日はずっと楽しそうで、若林はずっとつまらなそうだった。

「社会人大学人見知り学部卒業見込」より

バブル世代の価値観の中で生きていくけど、彼らの語る幸福と上手く馴染めない氷河期世代。多様化した時代を生き、幸せになるためには、自分が何をしている時が幸せかを知り、それを満たすしかない。誰かの幸福を借りても、幸福にはなれないのだ。

同書の中で彼は、なぜ先輩との飲み会でお酌をしなければいけないのか、おごってもらっているから?なら割り勘ならいいのか、と悩んでいる。当たり前のことを「そういうもの」と割り切れない男。メンドクサイと言われがちだが、そんな彼の葛藤がやがて自分の言葉として、世の中に放たれていく。

さらに、彼のキャリアもその言葉に重みを加える。

売れない極貧の20代と、2008年以降の売れっ子の時期、その喧噪が去り、注目されない時期を経て、安定してテレビに出てMCになっていく、というお笑い芸人が通るべき、すべての道を経験したからこそ、彼の言葉に多くの芸人が耳を傾け、特に年下の芸人は「そういう時期ってどう過ごしたんですか?」と質問するのだ。

そして、苦労しながら芸能界を生き残ってきたからこそ、多くの芸人の悩みに共感できるし、優しい言葉をかけてあげられるのだ。

テレビ東京の佐久間プロデューサーは若林を「生き様芸人」と呼ぶ。まさにその通りで、若林は、クレバーな印象があるが、本当に不器用でその生き様をさらしながらテレビの世界で生きている。だからこそ、彼の言葉は深いところに刺さるのである。決して名言を連発するようなタイプではないが、ちゃんとした深さのある芸人だからこそ、「やっぱそうだよね」という共感の一言が優しく染みわたるのだ。

情景で心境を語る能力

最後は「情景で語る」である。情景とは「人間の心の働きを通して味わわれる、景色や場面」のことである。

これはテレビでは出現せず、ラジオでのみたまに登場する。

そして、これは私自身が若林という存在を急激に意識した時の話になる。

時期的には「たりないふたり」でコンビを組む、盟友の山里亮太が結婚し、相方の春日も結婚し、自らは結婚を意識しながら、彼女との関係を深めているころの、オードリーのラジオのトークだった。

「春日と山ちゃんが結婚して、みんなにどうなの?って聞かれるんだけど、最近思い出すのが、小学校の時のこと。おれは近所にある高いビルの壁にボールを当てて、落ちてくるボールを誰がキャッチするのかを競う遊びを友達4,5人とやっていたんだ。そしたら、だんだん人数が減っていって、ある時、いつもの遊び場にいったら俺一人だった。みんな何やっているんだろうと思って次に日に学校で聞いてみたら、中学受験をするから塾に通っているというんだよ。その日、家に帰って親に受験したい、と言って塾にいったんだ。あの頃のことを最近思い出す」

いかがだろうか。これはエピソードトークとは一線を画す、もはや短編小説の世界だと思う。

この場合の小説とは何か。それは「物語という形でしか伝えられないことを書く」ことである。

「みんなが結婚して寂しいよ」なんて簡単な言葉ではなく、みんなで楽しく遊んでいたのに、いつの間にか自分だけが取り残されていたあの日の思い出。その情景を通して、今の自分の心境を伝える。

この若林の特別な能力を絶賛しているのが、オードリーのラジオの放送作家である、藤井青銅さんである。青銅さんは、ウッチャンナンチャンのラジオを担当し、伊集院光を育て上げ、そして、ラジオパーソナリティのオーディションで若林と出会うと、これからはオードリーを育てる、と伊集院に語った人物である。

オードリーがM-1を取るずっと前に、彼の才能に惚れ込んだ重要人物である。

その彼が若林がブレイク前に語っていたエピソードの中で、大好きだと言っているのが「夏、仲間とネタ作りに区民プールに行き、『向こうまで潜って泳げたら売れる』とみんなでそれを繰り返すけど、結局プールで泳いだだけ」という話だという。

これもまさに短編小説のような話だと思う。芸人のエピソードトークは、基本的に笑いへの疾走であるはずなのに、若林のエピソードトークはもう少し複雑で、そこには隠し味のように悲哀が含まれているのである。

若林も好きな村上龍の本で「料理小説集」という作品がある。この本は「登場する料理が美味しい」ということを「美味しい」という言葉を使わず、物語を通して伝えることでもっと的確に伝わる、ということを証明するための小説集になっている。若林のエピソードトークもそれに近い。

「辛かった」「悲しかった」「悔しかった」という言葉ではなく、ある一場面を切り取ってその時の心情を語ることで、聞き手に自分の心境をよりリアルに伝える。これは本当に特別な能力であり、かなり高度な技術だと思う。その葛藤の様子は、ある意味で自分語りであり、そこに心の動きを乗せることで、相手を共鳴させる「話す文学」と言っていいのではないだろうか。

まとめとおまけ

さて、3つのポイントを通して若林の魅力を語ってみた。

ボケない春日といることで磨き上げたフリの能力と、葛藤を繰り返して獲得した「生き様芸人」としての自分だけの言葉、そして、情景で見せる「話す文学」という能力。この3つこそが、若林が特別たる所以だといえる。

いや、若林の魅力はそこではない。かわいいところだ、清潔感のあるところだ、というのも間違いではないだろう。藤井青銅さんはオードリーの魅力をウッチャンナンチャンと同じ「清潔感」にあると語っている。

それはテレビに出るうえで非常に大事なポイントだ。だが、それだけでいまの安定した人気を語ることはできないだろう。

やはり彼の魅力は、先述の3つのポイントにあると思う。

だが、ここまで書いても、若林の魅力が上手く伝わらない人もいるかもしれない。情景とか言われても、、と。

そんな方にお勧めなのが、とにかく若林が出る番組、ラジオを全部聞く、なんならnoteの有料会員にもなってみるのがおすすめだ。

なぜそんなことを書くのか。それは、彼の本当の楽しみ方は、番組を横断して続けられる自分語りにあるからだ。

「俺はさ~」なんて分かりやすく自分を語ることは無い。そこにあるのは生き様の断片だけだ。激レアさんのオープニングトークや、セブンルールのYoutubeの動画、たりないふたりでの山ちゃんへの叫び、ラジオのフリートーク。その端々に彼の生き様が刻まれているのだ。

そして、その断片を拾い集めてテロップにしているのが「日向坂で会いましょう」だ。

そのテロップには、若林が最近テレビで言った印象的な発言がことごとく登場する。

そうした楽しみ方は、ただ出演しているテレビが面白い、なんて話ではない。もっと壮大な、まるで大河ドラマを見ているような感覚になってくる。テレビ業界、芸能界という世界で葛藤しながら邁進するオードリー若林という人間の物語を堪能する。それこそが彼の楽しみ方だと思う。

さて、気付いたら長く書いてしまったが、とにかく一人でも多くの人に、オードリー若林という芸人の凄さと彼の魅力が伝われば本当に幸いである。

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